カイト・カフェ

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「いじめ問題のオルタナ・ファクト」②

 客観的事実に対して主観的事実を対置させ“等価”だというのは、近代以降の世界ではありえないことでした。
 近現代は科学を基礎としていますから、常にそこで求められるのは客観的事実です。
 主観は個々すべてが異なるのでなかなか調整という訳にはいきませんが、客観的事実だとお互いに一致することができる、納得できなくても同じ風景を見ていると了解しあえる、あとはそこからどう妥協していくかだけです。

 慰安婦問題について言えば一方は「軍が関与しなかった」という証明ができない(一般に“〜ない”ということを証明するのは難しいのですが)、他方は「日本軍が少女を拉致して慰安婦にした」という証拠が提出できない――そういった状況(客観的事実)を前にお互いに引き合うしかなかった、主張したい主観的事実は双方にあったがそれでは埒が明かないので政治的妥協を計った、それが日韓合意です。
 それ以外に合意の道はなかったという意味で、私は正しい選択だったと思います。しかしそれに不満を持つ人は、今日も双方にいます。

 不満を持つ人々が腹に抱えているのは、“私の信じる事実”は、写真や数値などで示される“客観的事実”よりも遥かに価値があるという強い思いです。トランプ政権のオルタナ・ファクトも同じものです。

【沖縄いじめ暴力事件】

 先月末、沖縄県沖縄市で起こったいじめ事件については、
 教育委員会は3日、市内の中学校で「重大ないじめ暴行事件」があったと発表した。時事通信市立中で「重大ないじめ」=暴行動画がネット拡散−沖縄
ということで先週、大きく報道されました。

 これが全国的な話題となったのは、最初に記事を書いた沖縄タイムス(2017.01.30 同級生を暴行、動画で拡散 教委「いじめとみていない」)が
「中学校がある自治体の教委は事実関係を調べ、いじめとはみていない」
と書いたからです。“いじめ”が否定されたために世論が沸騰、ネットも大手メディアも教委の対応を非難する記事・放送で溢れかえったのです。

 市教委は慌てて「発言の意図が伝わっていない」と訂正したのですが時すでに遅く、非難のメールや電話が洪水のように寄せられて、市教委はたまらず“いじめ”を認めて上記のような発表をしたわけです。

 さて、私がこの件で最初に首を傾げたのは、なぜ人々はそこまで“いじめ”にこだわったのかという点です。

 ネット上に拡散した動画ですので私も見る機会を得ましたが、ひと気のなさそうな場所で一人の少年が同い年くらいの男子に一方的に蹴られたり殴られたりしている動画で、周囲には撮影者も含め、数人の子どもがいる様子がうかがえます。それだけです。どう見ても一方的な暴行事件です。
 ここから得られる客観的な事実は「一方的な暴力があった」というそれだけです。さらに沖縄タイムスの最初の記事を読んでも、確認できる客観的な事実は動画を補強する程度のものでしかありません。 
 

【想像はいくらでもできる】

 もちろんそこから想像できることはあります。例えば、
「被害者は何の落ち度もない気弱な少年で、今日もひと気のない場所に呼び出され殴る蹴るの乱暴を受け、その結果、金を持ってくることを約束させられた」
 それがひとつです。
 世間はこの説を採ってりました。ネットも大手メディアも燃え上がって、非難の声が市に殺到しました。

 しかし他の想像だってできたはずです。
「これは仲間内の話で、被害者は仲間の金を勝手に使いこんだので制裁を受けている」
「これは仲間内の話で、被害者は昨日までボスだった。その態度があまりにひどいので、今日、革命が起こって力関係が逆転し、今までの恨みが晴らされている」
「これは不良仲間の話で、被害者はその世界から足を洗ってひとりだけ良い子になろうとして制裁を受けている。足抜けするための標準的儀式なので被害者は抵抗もせずに我慢している」

 それにもかかわらず“いじめ”説だけが採用されたのは、それが一番被害者の立場に立ちやすいからでしょう。
これはひどいな、かわいそうだな”と感じたとき、一番同化しやすいのは“かわいそうな彼”であって、“悪いことをした彼”ではないのです。韓国のいわゆる“慰安婦像”が見るからに無垢な素直そうな少女であるのと同じです。 

【いじめ問題のオルタナ・ファクト】

 それは(少なくとも動画が出回った時点では)客観的事実はないものの、人々によってもうひとつの事実(オルタナ・ファクト)として現れ、人々を激怒させたのです。
 その結果、市教委は「重大ないじめ暴行事件」という奇妙な言い回しで“いじめ”を認め、被害者は出し渋っていた被害届を県警に出したのです。

(この稿、続く)