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「人の心は計れない」~日本体操協会パワハラ事件と奄美中1指導死事件3

 簡単に言うと、
「いじめは絶対に許すな、被害(を訴えた)者最優先で、どんな些細な訴えにも耳を傾け、小さな心の傷も疎かにせず、一刻も早く解決せよ」というのは、マスメディアも文科省も、世論も一致して支持し、学校に迫った対応ではなかったか。
 それをきちんとやった奄美中1の担任は間違っていない。
 ただし私はそうしないが――。

というお話。

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【記事『「善意」で行った誤った指導が、子どもの自殺を招く』】

 12月9日、朝日新聞デジタルは「奄美中1自殺事件」に関する第三者委員会の報告書が出たことを報じた(『奄美の中1自殺、担任の誤解による指導が原因 第三者委』 )後で、『「善意」で誤った指導、子どもの自殺招く 懸念が現実に』という後追い記事を発表しています。

 担任教師の行ったことは“善意”によるものではなく“職務”だったと思うのですがそれは別として、中で記者はこんなふうに記しています。
 同法(引用者注:「いじめ防止対策推進法」)をきっかけに、「いじめをしっかり把握し、早い段階で芽をつもう」という対応が学校現場で積極的に進められるようになっている
(中略)
 その一方、同法は「被害者」の保護と、「加害者」への指導を求めている。施行時から、対立軸に分けて過剰に対応すれば、かえって子どもたちを追い詰めるのではないかと心配されてきた。
 しかし私の知る限り、そんな懸念を表明したマスメディアはこれまでひとつもなかったとはずです。

 

【いじめ事件で、学校が守ろうとしたもの】

 「いじめ自殺」といった深刻な事件が起こるたびに、学校はマスメディアから「隠ぺい体質」の誹りを受けてきました。
 たしかに学校はすべてを明らかにしようとしませんでしたが、それはメディアの言うような校長の保身や出世のためではありません。被害者のプライバシーを守るとともに、加害者と目される生徒のプライバシーとその未来を守りたかったからです。それが “亡くなった被害者よりも、生きている加害者(と目される生徒)を優先している”ように見えたとしてもしかたありません。

 学校が “いじめ”の存在を認めることは、加害者とされる子を“いじめで友だちを死に追い詰めた”児童生徒と断定することになるからです。公式に犯罪者扱いされた子は、少なくとも地域では生きて行けません。
 したがって学校は否が応にも慎重になります。

 

【メディアも社会も学校を許さない】

 ところがメディアは、それを承知で追及することをやめませんでした。
 「いじめ=自殺」と呼ばれる多くの事件で、学校が最初に言っていたのは「いじめは確かにあったが、それと自殺の因果関係は明らかではない」ということでした。いじめがなかったということではありません。

 おそらく青少年の自殺の大部分は、厳密的な意味で原因不明なのです。本人にだってわかっていないかもしれない。
 多くの場合それは複合的であいまいで、遠因と近因そして直接原因が複雑に絡んでいるのです。

 したがって「いじめはあったが自殺との因果関係を明らかではない」はかなり誠実な回答であったはずなのに、メディアはそれを許しませんでした。
 どうしても「原因は“いじめ”であって、それを防げなかった学校に責任がある」という形に落とし込まないと承知しないのです。

 今や「いじめが自殺の原因とは言えない」は、第三者委員会の報告書にも書けなくなっています。

 ただし最近、学校は概して早期に“いじめ”を認めるようになっています。「いじめ=自殺」の場合でもためらいません。
 もちろんそれは学校が改心したからではありません。ここ数年の間に、いつまでも抵抗するとメディアの追及が長引き、その間にネット市民が生徒の個人情報を次々と掴んではネット上にアップし始めることが分かってきたからです。

 加害者とされる子を守るためには、むしろ早めに白旗を掲げ、報道を止めて世間に事件を忘れてもらう方が有利――そういうことになってきたのです。

 

奄美中1担任教諭、彼は間違っていない】

 話を奄美に戻します。

 善意から誤った指導をして生徒を死に追い込んだとされる担任教師は、記事に、
 日常的に暴力や暴言などがあった担任の指導が複数の生徒の証言から浮かび上がった。「ベルトをつかまれ、突き飛ばされた」「怒って教卓を倒した」「部活の練習でミスをした女子生徒にボールを当てた」「たばこの吸い殻の入ったコーヒー缶を顔付近めがけて投げられた」……。男子生徒らへの指導の際にも担任は別の生徒をたたいていた。(2018/12/9 『奄美中1自殺 父無念「担任が話聞いてくれれば」 生徒、作文で「生きることに感謝」』 毎日新聞
とあるくらですから、何かと問題の多かった人のようです。しかし自分のクラスで起こったいじめ事件の指導に関しては、なにひとつ間違ったことをしていなかったように私には見えます。

 とにかく対応が早く指導を後回しにしない。これは中学校の担任としてはかなり立派なことです。

 授業後に泣いている生徒がいればすぐに、「嫌なことがあったら話すように」と声をかけ、同級生10名の名前を掘り起こす。その10人をその日のうち(放課後)に指導し、謝罪させる。
 記憶が新鮮なうちに指導を終えるのは有能な教師の必須条件です。

 この時の“いじめ”は「消しゴムのかすを投げられた」というもので、訴えられた生徒は後に「同級生(引用者注:いじめの被害者)からやってきたのに、自分が怒られた」と不満を述べたそうですが、どちらが先に手を出したかは、“いじめ”では問題になりません。

 文科省の通達で、
 いじめであるか否かの判断は、あくまでもいじめられている子どもの認識の問題であるということを銘記し、表面的・形式的な判断で済ませることなく、子どもの立場に立って細心の注意を払い、親身の指導を行うことが不可欠である。「いじめの問題の解決のために当面取るべき方策等について」平成7年3月13日)
となっているからです。

 文中の「子どもの立場に立って」文科省の通達に再三出てくる表現で、最近では今年の10月25日に出された「平成29年度児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果について」 )でも、
 本調査において,個々の行為が「いじめ」に当たるか否かの判断は,表面的・形式的に行うことなく,いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする。
とあり、つまり“いじめ”か否かは被害者の気持ちに添ってやるものであって、加害者側に立つものであったり客観的であったりしてはいけないのです。

 

【人の気持ちは計れない】

 二度目のいじめの訴えは「方言を言ってくる」というものでした。
 これについて第三者委員会の報告書は
 男子生徒が使った方言は「友人同士の他愛のないやり取りだった」と指摘。同級生が第三者委の調査に「男子生徒は友達。方言は遊びみたいなもの」と話したことや、男子生徒が指導を受ける直前にも同級生に給食を運んだり、サッカーに誘ったりしたことなどから「心身に苦痛を与える嫌がらせとは認められない」と判断した。
 他愛ないやり取りを見過ごすな、というのは教師が再三指導されてきたことです。

 私は報告書のこの部分に激しく反発します。
 もしこれが加害者とされた子の自殺ではなく、被害を訴えた子の自殺だったとしても、第三者委員会はこうした文が書けただろうかと思うわけです。

 訴えた方の子が亡くなっていたら、「友人同士の他愛ないやり取りだった」という見立ては事態をあまりにも軽く見た愚かな認識ですし、給食を運んだりサッカーに誘ったりした行為もそこに恐ろしいいたくらみが隠されていたことに気づくべきたった、という話になっていたかもしれないのです。

 奄美中1自殺事件の担任は自分でも、「本当にちょっかいを出したのだろうか」と首を傾げながら、個々の行為が「いじめ」に当たるか否かの判断は,表面的・形式的に行うことなく,いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとすると考え、それなりに努力していたのです。

 人の心は計れない。ちょっかいを出された子はほんとうに苦しんでいるかもしれないと――。

 

【けれど私はそうしない】

 問題の担任は、杓子定規と言ってもいいくらい律儀できちんとした手順を踏める人です。
 指導の際にいちいち紙に書かせせるのは、書くことで事実を対象化し、客観的に見させるため。また証拠として残すことにもなります。
 家庭訪問をして励ましたのも、その日起こったことをその日のうちに完結させ、翌日に残さないための手堅い方法であるとともに、さりげなく保護者に事実を知らせる方便でもあります。
 わざわざ電話をかけたり保護者を呼び出したりするほどのことはないが、親は知っているべきだという時に使う常とう手段です。

 ある意味で非常に熱心な良い先生なのでしょう。しかし私ならそうしません。
 なぜなら教師の私は“いじめ”られた生徒を全力で守りますが、そうでない私の常識は心の中でこう叫ぶからです。

「消しゴムのかすを投げられたくらいでキャーギャー泣くんじゃない」
「方言をしつこく言われたくらいが何だ!」
「中1にもなって、人前で泣くな!」


 これは基本的に被害を訴えた方の問題なのです。少なくともそう思わせる事例です。
 中学校は大人になるための学校です。したがってそこに疑似的な大人社会が用意され、「こういう場合、大人ならどうするか」「大人としてどう対応するか」が常に問われます。

 大人だったら人前で簡単に泣いたりしません。場所が場所ならつけこまれます。大人なら相当な程度で自己主張できなくてはいけません。誰かに助けを求めるにしても、きちんとそれを説明できなくてはいません。

 私だったら事実をさらに丁寧に調べ、何があったかを明らかにして、被害を訴えた方に家庭訪問をします。そしてその子の成長に資するようにします。

 人間関係において0対100などということはあり得ません。
 個々の行為が「いじめ」に当たるか否かの判断は,(中略)いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする
 なんてクソ食らえです。

 そして現場では多くの先生たちが私とまったく同じように考え、同じ対応をしているはずです。
 もしかしたら奄美中1の担任の過ちは、文科省やマスコミや、世間の言う通りに行動したということなのかもしれません。