「事件の始まり」〜マイ・レジューム

「“いじめ”事件において、いじめられる側にも問題があるということは絶対にない。悪いのは100%いじめる側だ」という言い方があります。

 確かに、いじめ事件の指導の真っ最中に、被害者に向かって「キミにも問題があるね」と言うことはできません。いじめ被害でズタズタになっている心をさらに踏みつぶすようなものです。

 しかしいじめは「通り魔事件」や「強盗事件」ではないのです。人間関係の中で起きることですから100対0ということはないのです。それに問題のまったくないという子どもというのもめったにいません。何かしか問題を抱えているからこそ子どもなのです。

 高垣忠一郎というひとはその著書のなかでこんなふうに言っています。

「しかし高学年にもなってくれば、自己客観視に必要な認識面での能力は、それなりに発達してきているはずであり、それができないとなれば、自己客観視を困難にする他の要因を考えねばならない。

そのような要因の一つとして考えられるのは、被害者意識である。いじめる側の心のすみにでも被害者意識があれば、それが邪魔をして、自己の加害者としての立場に気づかせないことが往々にしてある」(『登校拒否・不登校をめぐって』《青木書店、1991》)

 別の言い方をすると、加害者の心の中に“正義”があるのかもしれないということです。それはまったく客観性がなかったり、加害者の受けた“被害”に対応しないものであっても、主観的な正義を振り回していじめ行為をしているのではないかということです。

 私の大きな過ちのひとつは、クラスに起きたいじめ事件で、その加害者の抱える被害者意識(=正義)にまったく配慮を与えなかったことです。

「何やかや言い訳したところで、要するにお前たちは“いじめ”をしたんだ。謝れ!」

ということです。しかし心の中に一片でも正義を抱える者に、「とにかく反省しろ」では通るものも通らないのです。

 具体的に言えば被害者の女の子は、加害者から「生意気で、高慢で、自分の持ち物を自慢したり成績を自慢したり、本当に行ったかどうかわからないような外国旅行の話をしたり」と、ほんとうに迷惑な子だと目されていました。一部の子たちにとって「とても嫌な子」だったのです。

 かなり早い段階で、私はそれを聞いていました。ですからその時点でその子を指導しておけばよかったのです。それはその子の問題性ですから、指導して当然なのです。

 しかし私はそうしませんでした。世の中には多様な生き方があり、その程度は認められるべきだと思っていました。そして訴えてきた生徒にもそのように説明しました。実際のところ、どう指導したらいいのかも分からなかったのです。

「キミ、生意気だと思われているから注意した方がいいよ」では済まないのです。

 クラスの中でその子のために嫌な思いをしている子がたくさんいます。しかし担任に言っても動いてくれない。遠回しに本人に注意しても理解してもらえない、露骨に嫌な顔をしても察してもらえない、改まらない――そこでいよいよ“正義の士”が登場し、天罰を与えようとします。

 それが私のクラスで起こった“いじめ事件”の始まりです。

                                 (この稿、続く)