カイト・カフェ

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「現場検証のすすめ」c〜子どもたちの危機⑧

 事実をはっきりさせること、そして机上では思いつかなかったミスや調査の穴を明らかにさせること――そんな目的で始めた「現場検証」ですが半ば面白がってやっているうちに別の側面も見えてきました。それは事実を客観的に見ているのは私だけではないということです。

 人を殴ったとか蹴ったとか、意地悪をしたとか仲間はずれにしたとか、どう見ても不当としか思えない事柄の中にも、子どもなりの理由があります。嫌なことを言われたとか邪魔されたとか、先に手を出されたとか変な顔をされたとかいったものです。係争の主な理由のひとつは被害者意識で、「やられたからやり返した」というパターンが非常に多いことも特徴的です。ただし客観的に見た場合、被害の大きさは必ずしも行動とは対応しません。

「バカ」と言われたくらいで顔の正面に正拳で突きを入れてはいけません。鉛筆を持って行かれたくらいで殴り倒した友だちを何発も蹴ってはいけません――そんなことは当たり前です。しかしその瞬間当たり前のことが判断のできない子も多いのです。彼のやったことは被害者意識とほぼ対応しているからです
「バカ」と言われたときの心の痛みは拳で鼻を折られるのと同じくらい大きい、鉛筆を奪われるのはキック5連発に値する――少なくともその瞬間はそうなのです。

 そうした主観的な因果応報を客観的に検証させるのが「現場検証」です。
 何度も何度も“事件”について語り“事件”を演じることによって、実際には何があったのか、相手の思惑はどうだったのか、その時の自分の感情は事実にふさわしいものだったのか、自分の行為も事実にふさわしいものだったのか――そうしているうちに“事件”は自分の手元を離れ客体化されていきます。そしてそのとき、主観的な因果関係は消え事実の因果だけが見えてきます。
 自分はただ「バカ」と言っただけの友だちにとんでもない痛みを与えてしまった、「鉛筆、返してくれよ」と言えば済む話だったのかもしれないのにしつこいほどの暴力を加えてしまった――そうしたことは実際に子どもたちを動かすことによって見えてきます。

 暴力以外の、例えば女子の着替えをベランダから覗いたとか街の店で万引きをしたといった事件でも新たな発見があります。欲望に駆られて後先を考えずに行動する自分、コソコソとあたりを覗うみっともない自分、ことがうまく運んでヘラヘラと笑いながら逃げてくる自分――その瞬間には気づかなかった罪深さをまざまざと見させるには、やはり現場で実際に動いてみなければわかりません。いじめの罪深さなどはさらに鮮やかい浮かび上がってきます。

 日本では3人以上殺して死刑にならなかった例はないそうです。もちろん死者が一人でも二人でも死刑になる場合はあります。だったら容疑者は絶対に自白してはならないのです。少なくとも絶対しゃべらないと決意して留置場に入った被疑者は大勢いるはずです。しかしそれにもかかわらず多くの犯罪者は洗いざらいをしゃべってしまう。
 時代劇のように証拠を目の前に突きつけられて「御見逸れしやした」と平伏するわけではないでしょう。証拠なんてくそくらえです。いざとなったらだんまりを極め込めばいいのです。黙秘権は認められています。しかしそれにもかかわらず自白してしまうのは、やはりそこに真摯な反省と後悔があるからではないのかと思うのです。

 犯罪を犯したときの激情や苦境、怒りや憎しみ、数々の言い訳――そうしたものは繰り返し同じことを聞かれ繰り返し同じように答え、現場に行き何回も当時のことを想起する中で消えていき、あとには行為の罪深さだけが残る、そうしたことが起きているのではないかと思うのです。

(この稿、続く)