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「体罰の問題」⑦最終〜体罰のない社会へ

 私が子どものころ、そしてそれ以前の教師は二重の下駄を履いて教育活動を行っていました。「体罰」と「保護者からの絶対的信託」です。
 昔の教師の教育力というのはそういうもので、それが“坊ちゃん”や“うらなり”、“野だいこ”でも教員が務まった主な理由です。「二十四の瞳」の大石先生など(小豆島ならいざ知らず)今の都会近郊の、厄介な地域に赴任したものならあっという間に学級崩壊です。子どものあとを泣きながら追いかけているようでは、現代の教員は務まりません。

 しかし今や二重の下駄ははずされ、その分、教育力が低下したと言われても仕方ありません。「昔の教員は偉かった、それに比べると現代の教師はずいぶんと教育力が落ちた」、その言い方は、一面で間違っていないのです。

 私たちはこの二つの強力な武器を失い、しかしそれに代わる武器を手に入れることができませんでした。しかしそれでも何とかなってきたのは、平成以降(つまり学校から暴力が排除され、保護者の絶対的信託が抜け落ちて行ったこの四半世紀)、20倍〜30倍というとんでもない競争率を勝ち抜いてきた若い教師たちが、実に優秀だったからです。
 彼らは苦労しながらも、保護者の信頼を引き寄せ、暴力抜きの教育に道筋をつけてきました。それは若いころの私たちがなしえなかったことです。彼らの存在抜きに、この20年あまりの教育を語ることはできません。

 けれど個人的な能力や努力によってようやく支えられている組織はいつか崩れていきます。崖っぷちの戦いを延々と続けることは不可能だからです。うまく行っている時にこそ何かを変えなければならないのであって、崩れてからの対応では原状に復帰することなどとてもおぼつかなくなります。ではどうしたら良いのでしょうか。

 かつての日本には体罰以外の罰はほとんどありませんでした。あっても反省文20枚といったものです(これだって子どもによっては体罰ですが)。そこから“体罰”がなくなるわけですから“罰”自体がなくなってしまったのと同じになります。体罰肯定あるいは擁護派の一部は、そこに恐れを持っています。
 授業を荒らしても罪を問われない、いじめで友だちを追いつめても責任を負わないそれで子どもが育つのか、罪を犯しても責任を問われない社会など学校以外のどこにあるのだ――彼らは恐怖とともにそう叫びます。それも理解できるものです。
 したがって体罰に代わる“罪と罰の体系”をつくりなおすことが、体罰を二度と起こさないためのひとつのアイデアとなります。授業を荒らしたらこうなる、万引きや恐喝などを行ったら学校としてこういう処分を行うといったことを明確にし、粛々と実施するのです。ことが起るたびに処分内容を考えていたのでは、対応が遅れますしばらつきも出ます。そして何より、子どもに見通しというものがないので抑止力が働かないのです。

 これについて一時期、「ゼロ・トレランス」という考え方が話題になったことがあります。罰則を定め、むやみに容赦しないできちんと対処せよというものです。しかし「寛容なき処罰」と訳されて日本では極めて不人気で、いつの間にか忘れられてしまいました。
「教師は“きまり”に頼ることなく、生徒に寄り添った肌理の細かな指導をするべきだ」というのがその人たちの基本的な考え方です。

 だとしたらゼロ・トレランス方式の代わりに、ひとりの生徒と2時間も3時間もじっくりと話せるだけの職員配置をすればいいのです。これが二つ目のアイデアです。
 そのためにはとりあえず各学年にひとり、“余計な教員”を置いておくだけでよいでしょう(3学級に一人程度の配置。したがって4学級以上の学年には2名)。ほとんどに時間、ただ学校にいるだけの存在になるかもしれませんが、肌理の細かな指導をするためには絶対に必要です。

 部活については、顧問の(教員としての)負担を極端に減らし、勤務時間内に繰り返し研修に行ったり指導研究をしたりする時間を確保するより外ありません。
 体罰の誘惑にかられやすい部活顧問の状況は、「短期間に部員の実力を高め、試合に間に合わせて勝利しなければならない」というものです。しかしそうした指導技術は簡単に身につくものではありませんし、日々の練習計画などをじっくりと考える中で次第に生み出されるものです。熱心な指導を10年も続ければ自然に身につく部分も少なくありませんが、学校を替わるたびに違うスポーツの顧問をさせられるのが普通です。そのたびに一から始めなくてはなりません。中途半端な技術しかない教員が高い目標を持たされると、自然とそこに“体罰”への誘惑が生まれます。それを避けるためには教員の指導技術の向上が不可欠です。それには時間が必要です。

 いずれにしろ金と人数をかけなければ始まらない話です。
 教科ばかりでなく道徳を教え、社会性を育て、家庭生活の営み方から芸術の指導までしてさらに競技スポーツの基礎まで培おうという遠大な目標をもち、実際に世界最高峰の教育を実現している日本の公教育を、今後も維持していこうとすれば今まで通りというわけにはいかないのです。

 (この稿、終了)