「体罰の問題」⑥〜それでも許容できない

 

 3回に渡って体罰の教育力というものを考えてきました。

体罰は子どもを傷つけ怨みを残すだけで何の教育的効果もない」という人がいますが、そんなことはない、「体罰」には子どもをコントロールし、自らを伸ばそうとする強い力がある――私が証明したかったのはそういうことです。

 

 40人もの子どもを教科や社会性の学びに導き、努力させ続けるのは容易ではありません。暴力はそれ自体に教育力があるわけではありませんが教師と真剣に対面させ、その指導に向き合わせるという点で最後の手段となります。

 暴力は教師と生徒、人間と人間が真剣に向かい合う場を提供します。子どもを一気に異次元へ運び、内省させる力をもつのです。

 暴力には生徒たちが自らに設定した“限界”を乗り越えさせる力があり、普通の努力、真剣な思いだけでは突破できない壁を、それは一気に突き崩す力があるのかもしれません。

――それらはすべて私の経験に基づくものです。

 

 中学生時代、私はたぶんそれほど悪い子ではありませんでしたが、殴られる回数は5段階でおそらく「4」、一週間一度も殴られずに帰ると幸せでした。罪と罰が対応しませんが、それは私が「殴りやすい子」「殴るに都合の良い生徒」だったからでしょう。

 

 教員としてはその初期、人並みに“殴る教員”でした。正確に言えば“なり立て”のころには強い抵抗感があったのに、暴力に頼らなければ押さえられない状況に追い込まれ、さらにその後、暴力でも収拾のつかない段階へ追いつめられたのです。

 暴力には使い方がある、それがそのころ手に入れた教訓でした。そしてそれ以後、体罰を行うことをやめてしまいました。

 教育上、そうとうに効果のあるこの武器を、使いこなす自信がなかったのです。まだ修行が足りませんでしたし、そもそもそういうタイプではなかったからです。そしてそうこうするうちに、時代が変わって、学校は「体罰禁止」に大きく舵を切り始めました。

 私はそれで良かったし、そうあるべきだと思いました。

 なぜかと言えば、暴力を許容するといつかどこかで子どもが殺されるからです。 

 

体罰も正しい使い方をすれば・・・」という言い方がありますが、暴力の正しい使い方というものは存在しません。全員が自分の思う“正しい使い方”を始めても、教師と呼ばれる人は全国に100万人近くもいますからその程度には大きなブレが生じます。その一方の極で、子どもが殺されることになるのです。

 

 体罰の話を始めるに際して、「たったひとりの冤罪も出さないために、何人かの殺人鬼が世に放たれることにも耐えて行かなければいけない」というお話をしました。私はその不条理を受忍できると書きました。同じように教師によって殺される子を一人も出さないために、体罰という武器は放棄しなくてはなりません。それはどんな犠牲を払っても行うべきことなのです。

 

                          (この稿、次回最終)