「号泣!! オレの生きざまで感動を与えたい!」

 言葉は時代とともに変化していくものですし、不適切な語は自然に消えてしまいますからあまり苦にしなくてもいいようなものですが、どうにもこうにも我慢ならない語や語の用法がいくつかあります。 「感動を与えたい」  3・11以来繰り返し出てくる「感動を与えたい」がそのひとつです。「与える」はそもそも「自分の所有物を他の人に渡して、その人の物とする。現在ではやや改まった言い方で、恩恵的な意味で目下の者に授ける場合に多く用いる」大辞泉)という言葉です。「賞を―」「おやつを―」「援助を―」「注意を―」は皆そうです。  もちろん「良い印象を―」「感銘を―」という言い方もありますから「感動を与える」が悪いわけではありません。悪いのは「感動を与えたい」なのです。なぜなら「良い印象を―」「感銘を―」を使うとき、その印象や感銘を与えられているのはその言葉を使う主体自身だからです。「素晴らしい、感動を与える名演奏だった」という時、感動しているのはまず自分、そして自分とともにいる観衆たちです。演奏者自身がこの言葉を使ったら、それがどんな名演奏家でも僭越でしょう。 「被災地の皆様に歌で感動を与えたい」といった言葉を聞くと私は反射的に「オマエ、何様?」と言いたくなります。3・11のしばらく後、被災地にギターを持って出かけ「ボクたちには歌うことしかできません」とか言って路上ライブをした馬鹿者がいたそうですが(シャベル持って瓦礫の片づけでもしてロ!)、それと同じくらいモノの分からない人の言い方です。 「号泣」  最近、芸能ニュースなど見ているとしばしば見られる言葉です。先日も「藍、兄の優勝に号泣」とか出ていましたが、宮里藍さんは顔を覆って涙を流しただけでした。奥ゆかしく、立派な行動です。 「号泣」と表現されても、実際に号泣している例はほとんどありません、と言うか普通の大人は「号泣」したりしません。日本人は文化的にもあまり「号泣」をしないのです。 「号泣」というのは「棺にすがって号泣した」と使うように、大声を出して泣くことを言うのです。涙を流した程度では号泣とは言いません。しかし最近では涙一筋流しただけでも「号泣」。中には「声を押し殺して号泣した」といった、とんでもない使い方まであります(声も出さずに高笑い、大声で沈黙・・・)。 もっとも、  文化庁が発表した平成22年度「国語に関する世論調査」では、本来の意味である「大声をあげて泣く」で使う人が34.1パーセント、間違った意味「激しく泣く」で使う人が48.3パーセントという逆転した結果が出ている。デジタル大辞泉) のだそうですから、もう市民権を得ているのかもしれません。しかしそれにしても涙一筋で「号泣」はないと思います。 「生き様」 「死に様」はもちろんあります。本来は色のついていないものだと思いますが「ざまあ見ろ」の連想でしょうか、どちらかというと惨めだったり凄惨だったり、あるいは壮絶な死に使うことが多いように思います。「生き様」はその対比として、20数年前くらいに生まれてきた言葉です。  この言葉が嫌いなのはその中に「人生はおっとりとした穏やかな、美しいものであってはいけない」というメッセージを感じるからです。人生は壮絶でなければならない、激しくなければならない、泥臭くなくてはいけない・・・。  それほど強くは抵抗しませんがもともと日本語にはない言葉です、敢えて私の価値観と相いれないものを認める気にはなりません。私の場合は「生き様」ではなく、「生き方」で十分です。  他人から「オレの生き様を見てくれ!」などと叫ばれると、「どうぞご自由に」とその場を立ち去りたくなります。