カイト・カフェ

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「『感動ポルノ』の不安と憂鬱」①

 東日本大震災のとき、ギターを抱えて避難所を訪れた若者が二人、路上ライブの態勢をつくってひと言。
「今ぁ、ボクたちにできることは歌うことだけです」
 その瞬間、ギターを奪い取る者がいて代わりにスコップが渡された・・・。
 ついこのあいだ使ったばかりのお笑いネタを文頭に掲げておきます。後で必要だからです。

 さて、ネットニュースを見ていたら『感動ポルノ、就活ネタ作り…GWに被災地へ殺到する「モンスターボランティア」』という記事がありました。
「感動ポルノ」という言葉を知らなかったので読むと、
「(東日本大震災の時も)自己満足的な善意で被災地に現れ、汚れ仕事や力仕事はやらず、仲間内で歌を歌ったり親睦を深めたり……被災者そっちのけで盛り上がって帰っていく“自称ボランティア”が少なくなかった。それでいながら『働いたのに食事くらい出ないのか』と文句をつけるのだから、まさにモンスターボランティア。彼らは『感動』や『感謝』といった見返りを求めるので地味な仕事はやりたがらない。阪神・淡路大震災の時もガレキの前で記念撮影したり、避難所ではしゃいで顰蹙を買った人がいましたが、その当時からあまり変わっていません」(関東のNPO団体関係者)

「感動ポルノとして被災地を消費する人や、就職面接のネタにするために参加している大学生もいる。動機は何であれ被災地の役に立つのならいいのですが、そういった人はトラブルの原因になりがちです。勢いだけでやみくもに現地入りすれば交通や救援活動の妨げになったり、無用に被災地の負担を増やすことにもなる」(同)

 そうした人々が「GWに被災地へ殺到する」というのですから穏やかではありません。

 もちろん冷静に考えればこれはタイトルの勇み足で、「感動ポルノ」を求める「モンスターボランティア」が“殺到する”というほどのことはないと思います。文頭に掲げたような勘違い人間は確かにいそうですが、“殺到する”ほど大量にいるとも思えません。
 日本人は基本的にまじめなのです。大型連休に遊びにも行かず、作業着と道具を持って熊本に向かう人々の大部分は、私など想像もつかないような誠実で真摯な心を持った人たちです。それはもう間違いありません。それを一気に「感動ポルノ」「モンスターボランティア」という言葉で包み込むというのはいかがなものでしょう。

 調べたところ、「感動ポルノ」は2014年4月、オーストラリアのコメディアン(ジャーナリスト・障害者の権利活動家)であるステラ・ヤングという女性が、その講演の中で初めて使った言葉でした。骨形成不全症のために生涯を車いすで送ったこの女性は「私は皆さんの感動の対象ではありません、どうぞよろしく」と(*1)いう演題のもとで次のように語ったのです。

 みなさんも、両手のない少女がペンを口にくわえて絵を描いている写真や、義足で走る子供の写真を見たことがあるのではないでしょうか。 こういう画像はたくさんあり、私はそれらを「感動ものポルノ」と呼んでいます。
「ポルノ」という言葉をわざと使いました。なぜならこれらの写真は、ある特定のグループに属する人々を、他のグループの人々の利益のためにモノ扱いしているからです。障害者を、非障害者の利益のために消費の対象にしているわけです。
 先ほどお見せした写真の目的は、人を感動させ、勇気づけ、やる気を引き出すことです。つまり、「自分の人生はうまく行っていないけれど、もっとひどい人だっているんだ」と思わせるためのものです。「あんな大変な人もいるんだ」と。

            (中略)
「あなたの姿に感動した」と言う時、人はそれを賛辞として言っていると思っています。私は、どうしてそう言わざるを得ないのか知っています。それは私たち障害者が、障害と共に生きることが素晴らしいのだというイメージを作り上げて来たからなのです。本当は、そんなことはありません。

 ポルノグラフィーはその女性(または男性)のすべてを写し取るものではなく、劣情を催す部分だけ切り取って提示するものです。それと同じように、障害者も人格を切り割かれ、健常者の優越性を刺激し感動を催させる部分だけが切り取られ、加工されて提示される。健常者はそれによって感動し心が浄化されたりする。「『感動ポルノ』として消費する」というのはそういう意味です。

 これを被災地に当てはめると、ボランティアは生きとし生ける被災地の人々から不幸な部分、救いようのない部分だけを切り取り、そこに同情したり感動することで精神の浄化を得ようとしている――と、そんなふうになるのでしょうか?

(この稿、続く)