「震災をめぐる個人的な違和感」

その1 

 東日本大震災のとき、ギターを抱えて避難所を訪れた若者が二人、路上ライブの態勢をつくってひと言。

「今ぁ、ボクたちにできることは歌うことだけです」

 その瞬間、ギターを奪い取る者がいて代わりにスコップが渡された・・・。

 最期の部分はよくできた笑い話でしょうが前半はいかにもありそうな話です。

 AKB48や嵐が来て歌や踊りを見せるのではありません。ど素人が来て下手な歌を歌っても、誰も嬉しくはない、しかしとんでもない勘違いをする人は世の中にいくらでもいます。

 さて、熊本地震のテレビ放送を見て、その流れでスポーツコーナーまで行ってしまうと、しばしば嫌な言葉を耳にすることがあります。それは通り過ぎる際に私の感情を引っ掻いて、傷を残していくのですぐに気づきます。

「自分のプレイを通して被災地に勇気を与えたい」「元気を与えたい」「喜びを与えたい」等々。

 芸能人もしばしば「楽しみを与えたい」「笑いを与えたい」「安らぎを与えたい」と言ったりします。

「与えたい」に強い違和感を持つ人はもはや少数派なのでしょうか?

 私の感じ方からすると「与える」には明らかに「下し置く」という意味がある――つまり目上の者から下の者に“授ける”要素があります。

 自分の言語感覚が狂っているとは思いませんが、あまりにも堂々としかも繰り返し出てくるので穏やかではないのです。言葉は時代とともに変化するもの、だから今や上下関係をふくまない言葉に変わっているのかもしれません。

 ただしそうなると近々、「先生にお歳暮を与えなくちゃ」とか「お祖父ちゃんにご馳走を与えましょう」とか言う子どもたちが出てくるわけで、年配者としては覚悟をしておく必要があります。言われたからといって怒ったり卑屈になったり(まるで犬みたいじゃないか・・・)することはないのですから。

 それにしても、まだ私のような古い人間がいる以上、せめて「勇気を届けたい」とか「喜んでいただきたい」とかに替えられないものか、と思ったりもします。

その2

 89歳になる母のとの会話(ニュースを見ながら・・・)。

地震は怖いねえ」

「ああ、怖い」

「ニュースを見ているだけでガタガタ震えちゃう」

(そこまでは怖くない)

「やっぱ家具とか固定しておいた方がいいんじゃない? 今度の日曜日にやってくれるかい?」

「うん(だけど仏壇を壁に打ち付けたりするのは抵抗あるなあ)」

「水も用意しておかなくちゃね」

「うん(物置に五年前に買ったやつが2ケースもあるけど。しかもあの時は手に入れるのに2か月もかかった)」

「食料も買い込んでおこうか」

「・・・(そこまでは必要ないだろう)」

防災頭巾とかも売っているかねぇ」

 イライラしていた私はそこでキレかかります。

 こんなド田舎の、崖もない山もない洪水になるような川もない場所で、何が怖ろしいのか。押し入れの中には布団も毛布も腐るほどある(もしかしたら一部はほんとうに腐っているかもしれない)。自宅に畑があり(というか母のところと私のところと弟のところと、家庭菜園が三つもある)、周りは農家だらけだからどうしても必要なら分けてもらえばいい。そうりゃあ家具が倒れてきたり家そのものが潰れたら大変だけど・・・と、ここまでの言葉は全部飲み込んで、

「だけど毎日のように『長生きなんてするもんじゃない』『早く死にたい』『お迎えが来ない』って言って周囲を暗くさせてる人が、なんで地震が怖いわけ? 地震で家が潰れたら渡りに船みたいなものじゃない」

 私が言わずもがなのことを口にすると母も逆にキレて、

「だからお前には何の話もできない。意見が聞きたくて言っているんじゃない、言われたらただ『そうだね』って言って聞いていればいいのに」

 そう言って寝室へ行ってしまいました。

 この「意見が欲しくて話しているんじゃない、ただ黙って聞いていればいい」というのは妻もしばしば使う言葉ですが、ただ黙って『そうだね』と聞いていると何が起こるかわからない恐ろしさもあります。

 話を元に戻すと、もしかしたら私は週末、家じゅうの家具を固定し、水や非常食やその他の防災グッズを求めてあちこち奔走することになるかもしれないのです。今の時期(大地震直後)、それがとんでもなく大変なことは5年前に経験済みです。

 それにしても女性というのは揃いも揃って同じようなことを言い、子や夫に反論を許さず、言うことをきかせたがるものです・・・と、もちろんそんなことは言いません。今度はセクハラだと責められかねないから。