「『君をのせて』にみる父と母の役割」~両親が逆に背負ってもいが、子どもには父性と母性が必要だ

 家庭における父親の役割・母親の役割といった話をしようとすると厄介なのが、性差別の問題との整合性です。何も父性原理を担うのが男である必要はない、という主張とどう擦り合わせるかということです。
 父親の役を必ずしも父親が行う必要はないというのはまったくそのとおりで、子を包み込み、分類したり切り離したりせず、全肯定で接する存在が父親であってもかまいません。また子を分類し、主体と客体、善と悪、上と下とを厳しく分け、社会に押し出す存在が母親であってもかまわない、それは当たり前です。

 もちろんそうした逆転ではなく、両親それぞれが父性原理と母性原理を絶妙に使い分けている場合もあれば、一人親の場合は一人で二つを使い分けている場合も少なくありません。
 教員も、一人親と同じで、児童生徒に対し、常に一人で二つの原理を使い分けるよう運命づけられています。

 親子のかたち夫婦のかたちはさまざまであって「こうでなくてはいけない」というものはないのですが、しかし子育てをする上で、父性・母性の両方の原理に隙間ができてはいけない、一方だけではいけない――その点だけは確かです。

 たとえば子が万引きしたとき、厳しく社会性を要求する存在がなくてはならないのは当たり前です。「万引きくらいで警察に捕まって制裁を受けるなんてかわいそう」では話になりません。
 しかしだからと言って両親そろって「少年院へでも行って罰を受ければいい」と突き放すようではこれまた話にもなりません。一方が包み込む中で、他方は切り離していかなければ、子は育たないのです。

 繰り返しになりますが、その父性原理の代表者が母親であっても母性原理の代表者が父親であってもそれは一向にかまわないのです。しかし両者は不可欠であって、そこに遺漏や隙間はあってはならない、それは確かなのです。
 ではそうした指導の隙間をつくらないためにはどうしたらよいか。

 どんなことにも天才はいますから、難なくこれを成し遂げてしまう親もいるかもしれませんが、普通は「父親は父親らしく、母親は母親らしく」くらいにしておくと便利です。何と言っても指標がありますから、何となくそちらの方向に向いていけるのです。過去の事例に則っていれば、大きなミスは防ぎやすいのかもしれません。

 ♪ 父さんが残した 熱き想い 母さんがくれたあの眼差し 

  宮崎駿の「君をのせて」の一部です。
 この曲を聞いた最初から、私はこの部分に魅せられていました。
 そうだよな。父親の最大の仕事は子のモチベーションを築き、支えることなのだ。未来は確実に輝かしく美しいものであって、生きるに値する、そう教えるのが父親の仕事だ。
 そしてそうして外に押し出されるわが子を、暖かく見守り、支え続けるのが母親の仕事だ、そう感じるのです。もちろん両者が逆転するのはかまいませんが、どちらか(あるいは双方)が欠けるのはあまりにも危険が大きすぎる、そう思っています。

 私自身は基本的に母性の面が強いように思っていますが・・・。