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「暴力を振るった子どもを拒否してはいけない、しかし暴力を受け入れてもいけない」~家庭内暴力の指導①

 本格的な家庭内暴力の指導をというものを行った経験があるわけではありませんし何らかの研究をしたわけでもありません。しかし15年ほど前に担任したとても難しい女の子の長兄が家庭内暴力で、妹の指導を通して兄のことも様々に考えたことがあります。

 その後カウンセラーの富田富士也の本を読んでいたところ、
家庭内暴力の最初のターゲットになるのは通常は母親である。その母親が初めて暴力を受け傷ついた時、最初に子どもに与えるべきサインは“大丈夫よ”でなければならない。子どもは自分のしでかしたことに怯えている。だからまず“大丈夫よ”と言うことが必要なのだ(大意)」
という文章に出会い、その暗合に驚かされました。
 先の女生徒の兄が初めて暴力を振るったとき、救急車で運ばれた病院に真っ先に飛び込んできた一人は暴力を振るった長兄本人でした。その顔を見るなり母親は黙って目を逸らした、そのことを私は聞いていたからです。

 母親の立場に立てば目を逸らすという行為も理解できないわけではありません。何んといってもどう反応したら良いのか分からないからです。しかし“目を逸らす”という動きはひとつの重要な誤解を与えます。それは「拒否」です。
「お前なんか嫌いだ」というサインだと言っても「近寄らないで」というサインだと言っても的を得ません。とにかく「拒否」とか言いようのないその仕草が、暴力を振るった張本人のその子を傷つけるのです。

 これは「子どもを傷つけてはいけない」というレベルの話ではありません。この場合、
「傷つく」というのは「自分は親からも見放された最悪の人間だと思い込むこと」

です。そして自分を最悪の人間だと規定した子は悪の階段をまっしぐらに転げ落ちていきます。

“大丈夫よ”はそれを阻止するサイン、「私はあなたを見放さない」というメッセージなのです(この「私はあなたを見放さない」は、生徒指導上もっとも重要なキーワードだと私は信じています)。

 もちろん自分の子どもに救急車で運ばれるほどの暴力を振るわれるというのは普通の親にとって想定外のことです。したがってその状況で理想的な反応ができるとはとても思えませんが、もし前もって暴力の予兆があれば、そのことを母親に言っておくことは必要でしょう。
「もし本気で殴られけがをするようなことになったら、大切なことは“大丈夫”というサインを送ることです」そう言っておくのです。
 また予兆なく暴力を振るわれ、拒否的な反応をしてしまったあとなら、その反応がどういう子どもにとってどういう意味を持っていたのか、知らせておくのはその後に必ず役立つはずです。

 ただし「とんでもなく酷い暴力を受けても拒否的にならず、“大丈夫よ”というサインを送りなさい」と親を指導することは、別の問題を生みます。それは「どんな残酷な暴力であっても甘んじて耐えよ」と言うに等しいからです。事実、そうした指導を受けた人もいます。

 鳥越俊太郎・後藤和夫著「うちのお父さんは優しい〜検証◎金属バット殺人事件」(明窓社 2000)は息子の家庭内暴力の挙句その息子を殺さざるを得なくなった父親の物語ですが、その中にこんな一節があります。
「『言ってみれば、奴隷のようにこき使われるのが耐えがたい』と訴えたら、先生は『そういうことも一つの技術です。お父さん頑張ってください』と言いました。私は、『ああ、これも一つの技術なんだ』とストンと胸の中に落ちてきて、ホッとしました。」
 この父親は結局追い詰められたあげく自分の息子を殺す羽目に陥ります。しかしそのまま我慢していたら、父親の方が殺されていたに違いありません。子育てに失敗した親が死ぬのはかまいませんが、そのとき息子は殺人者なのです。自分の子どもを人殺しにしてはいけません。

 暴力を振るった子どもを拒否してはいけない、しかし暴力を受け入れてもいけない、この矛盾をどう克服するか、それは来週お話しします。