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「親子の祝祭」~学校で起こった嫌なことばかりを話題にして、盛り上がる親子

「石橋を叩いて渡る」という言葉がありますが、叩いたところ実際に割れてしまったとしたら、その人はどう感じるでしょう。私は、おそらく満足するのではないかと思うのです。もともと石橋を叩くこと自体は馬鹿げたことですが、実はそれが馬鹿げたことではなかった、実に賢明だったと証明されたら、そこに有能感が生まれるのではないかと思うのです。

 さて、世の中には異常に心配性な人がいます。「転ばぬ先の杖」を並べて何百メートル先まで歩く道筋をつくってしまうような人たちです。こういう人たちの心配がことごとく当たったら、それ自体は不幸でももしかしたら「予想が当たった」という満足感や「心の準備はできていた」という充実感はあるのかもしれません。

 学校で起きたできごとのうち、つまらなかったこと、不幸なこと、感心しないことばかりを選り好んで家で報告する子どもたちがいます。たとえば修学旅行から帰ってきていきなり「ぜんぜん面白くなかった」と言うような子です。運動会が終わっても「嫌なことがあった」。遠足から帰ってきても「疲れただけ」。では、本当に修学旅行中まったくつまらなそうにしていたかというとそうでもなく、けっこう楽しんだり愉快にやっていたりする様子が見られたりします。運動会でも活躍できる場面がなかったわけではありません。

 どうしてそうなのか、長いこと謎でしたがある日突然、こんなふうに思い立ったのです。これは結局、親子の祝祭なのだと。

 子どもは自分の「つまらなかったこと」「不幸なこと」「感心しないこと」の報告が、結局親を喜ばせるのだということを、いつの間にか覚えてしまったのです。不幸の報告のない日、親は何となく不安で落ち着きがない。それに対して不幸の報告をした日は、親は担任や同級生を呪い、怒り、本気になって考えてくれる、それは親が子どもに対していかに情熱を傾けているかの証明のようなものですし、もしかしたら親子が強力にひとつになれる、至福のときなのではなのかもしれません。

 どんなに楽しい行事を企画しても、どんなに工夫してその子の活躍できる場をつくりだしても、子どもはほんの些細な指先ほどの不幸をあげつらって報告し、親はそのたびに学校に怒鳴り込んできたり。そうなると手に負えません。

 しかしそうした祝祭の仕組みを考えると手の打ちようも出てきます。それは日ごろから心配性の親の耳に「心配することはない」という情報を大量に入れておくことです。具体的に言えば、その子が学校で誉められたときや活躍できたとき、「このこと、忘れずにお家で話しておいてね」と依頼しておくことです。

 また時折、担任から直接電話を入れるのも良いでしょう。私たちは子どもが病気だったり悪いことをしたりしたときは実に小まめに電話を入れたりしますが、その子が隠れたところでよい行いをした、他の先生から誉められたといったことはなかなか報告しません。考えただけでも照れてしまうからです。しかしだからこそ効果のある方法ともいえます。

 そんなふうによい情報が入り続ければ、心配性の親の気持ちはひとまず落ち着き、やがてどんどん学校から離れています。心配の種が別の方に移っていくのです。そうすればしばらくはこちらにも余裕が生まれます。