カイト・カフェ

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「不思議な人々」~子どもの将来にまったく不安を感じない保護者たち

 ついこの間まで、子どもが学校へ行きたくないというと大騒ぎし、具合が悪いなら病院に行こうと引きずり回し、いじめられているのか、先生が嫌なのかと問い詰めて、切羽詰った子どもが「いじめ」だと言ってしまうと今度は学校と一戦を構える、そんな親が少なくなかったはずです。それはそれで困った話ですが、少なくとも親が子どもに関心を寄せ、子どものためにあたふたするのは、今から考えればまだマシだったのかもしれません

 子どもに対して関心があるのか、その子とずっとこれからもやって行くつもりがあるのか、大人にして手放そうという気持ちがあるのか、さっぱり分からないような保護者が、ここのところちらほら見えるようになってきています。

 何日でも「子どもが頭が痛いと言っているので、休ませます」と電話して、教師を絶句させる保護者。
「こんなふうに手を打ちましょう」といった提案に深くうなづきながら結局何もしない保護者。
 些細なことから一方的に暴力をふるい、相手をボコボコにしてしまった息子に「やっちまったな。暴力男」とからかって済ませてしまう保護者。

 そんな人は、昔はいなかったはずです。ましてや学校から呼び出されて、「行く気はありません」と答えるような親は絶対にいませんでした。

 私はこういう人たちが不思議でなりません。
 この人たちには、恐怖心というものはないのでしょうか。学校に行かなくなった子どもが一生涯家から出ないといったことを想像しないのでしょうか。

 今は素手で友だちを殴っている息子が、いつかナイフや猟銃をもって同じことをするのではないかと恐れないのでしょうか。そして早ければ、2〜3年のうちにそうした恐れは現実のものとなるはずです。

 私はじっくりと腰を据え、何時間でも納得するまでそうした保護者の話を聞いてみたいと思います。本当に恐怖心はないのか、ほんとうに心配をしていないのかと。

 もちろんそんな親の子の面倒は見切れないと思うことも再三です。どうせ2〜3年もすれば一生会わなくてすむ親子です。あとはどうなってもいいと投げ出したい気持ちになることも少なくないのですが、困ったことに、私たちが投げ出したら拾う人がいません。

 結局、投げ出したはずの子を私たちが拾いに行かなければならないとしたら、徳俵ひとつで持ちこたえ、なんとかその子を支えて行くようがんばるしかないのです。