リヒャルト・シュトラウスの『ツァラトストラはかく語りき』は『2001年宇宙の旅のテーマ』という題名で有名ですが、これはシュトラウスがニーチェの哲学的著作『ツァラトストラはかく語りき』を呼んだときの感動を表現したものだと言われています。
そうなるとニーチェの感動を表すシュトラウスの曲に感動してしまったら、もうニーチェを読む必要はないのでしょうか。
もちろん、否です。ひとつの芸術のすばらしさを、別の芸術が代弁することはできません。
同様に、ピカソの絵のすばらしさを文章で表現することはできません。ピカソのすばらしさはピカソを見ることでしか得られないのです。
道徳教育というのは、人の生き方や立ち振る舞いの美しさに、子どもをふれさせることから始まります。その体験を通して、自分もかくありたいと願いを持ち、実際にそちらに向かって歩き出させることを企図しています。
困っている人や弱い人を助けるのは、それが美しいから行うのです。人知れず善行を積んだり、影日向なく働くのも、そうした生き方が美しく心地よいから行わなければならない、行いたくなる、そういうものなのです。
しかし、ニーチェに感動したりシュトラウスに酔いしれたり、ピカソの絵の前で呆然と立ち尽くすために非常に多くの経験を積まなければならないように、美しい行いが自然とできるようになるには、非常に多くの道徳的体験が必要となります。
もちろんそういう機会が多ければ多いほど良いのですが、直接体験だけではどうしても不足しがちです。週一回の道徳の時間は、そうした不足を補うためにあります。それが道徳の時間の意味なのだと私は考えます。