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「偉大なる日本の教育」〜体感!日本教育現在史①

 今回の朝日新聞の問題で、最も美酒に酔っているのは長年「朝日新聞自虐史観」を激しく攻撃してきた産経新聞です。しかし、その産経新聞が日本社会を見る目は狂っていないかというとそうではありません。特にその教育を見る目は、私に言わせればまさに「自虐教育観」です。だだしこれも一人産経新聞に限られたものではないでしょう。教育はすべての人々に関わるできごとですし、それぞれに思いがある、その“思い”と現実を見比べると“現実”はあまりにも拙い。そのギャップが日本の教育はダメだという意識をつくりあげるのです。しかし世界はそうではありません。

 震災における日本人の勇気・沈着、不屈と不倒、礼節と協力――ありとあらゆる道徳性が世界に紹介され絶賛されるにいたって、初めて知識人たちは「日本を貶める」ことをやめ始めた

 昨日私はそのように書きました。その“絶賛”の最中、各国は日本の道徳性の原因を教育に求め、日本の教育システムをも絶賛していたのです。特に中国では自国の教育を批判する立場から、その傾向が顕著でした。
 しかし日本のメディアはその部分をそぎ落としたのです。彼らが原因としてあげたのは“日本人のDNA”という極めて非科学的なものでした。これまで非難し続けた“教育”を、今さら認めるわけにはいかなかったのでしょう。

 実際には、諸外国が評価するように日本の教育は世界トップクラス、おそらく最高峰です。
 日本の教育は学力だけでなく道徳や健康教育(これを知育・徳育・体育と言います)も担っていますが、その3分野すべてにおいて、世界のトップクラスにあります。その3分野に同じだけの力を注いでいる国家・地域はほとんどありませんし、実際にうまく機能しているところもあるわけではありません。例えば道徳教育で日本の目指す「教科化」をいち早く進めたのは(文科省の資料によれば)韓国と中国ですが、「道徳は韓国・中国に学べ」と言えば今流行の嫌韓・嫌中本の著者たちは絶句してしまうでしょう。

 日本の道徳教育が優れているのは、「学校の全教育課程を通しての道徳」という、その教育理念のためです。この理念の下では、「道徳」の授業は、たとえば野球の教則本みたいなものです。
 バッティングを学ぼうという人で教則本に目を通す人は少なくないでしょう。実際に書籍を買わなくても、先輩やコーチの話としてバッティングのあり方や考え方の説明は受けるます。ただしそうして蓄えた知識のみで名選手になった人は一人もいません。たくさんの知識を持つ人が有能な選手になるとしたら、プロ野球は大学教授だけで編成できます。
 現実の選手たちは理論を学ぶだけでなく、実際にバットを振って練習します。何度も何度も、できるようになるまで続けます。それが普通のスポーツマンのあり方です。

 道徳も同じで、「道徳」の授業で良き生き方やあるべき人間関係を学び、自分もそうありたいと願い、その上で全教育課程を通して練習するのです。
 入学式や卒業式、始業式や終業式を通して敬虔な場における態度や動きを学び、遠足や修学旅行を通して役割分担や協力、目標を達成する喜びや重要性を学びます。そうした特別な行事だけでなく日常生活でも、子どもたちは係活動をし当番活動を行い、児童生徒会活動をしながら日々生き方の訓練を続けています。だから日本の学校は特別活動の時間が圧倒的に長い。

 保育園や幼稚園のころから――きちんと並びなさい、順番は守るものです、協力して給食の準備をしましょう、食べるときはきちんと挨拶するものです、食べ残しのないようにしましょう、そのための食べ方というものがあります、自分のものは自分で管理しましょう、脱いだ服や給食着は畳むものです、帰るときは忘れ物をしないように必ず確認しましょう――そんなことを毎日毎日延々と教えられて育つのはおそらく日本人だけです。それが小学校・中学校と進むにしたがって次第にレベルアップしていくのです。これで道徳性が高まらないわけがない。

 もちろん記録によれば日本人は魏志倭人伝の時代からかなり道徳的でした(日本人道徳性DNA説が出るのはそのためです)。しかしこれだけ価値の多様化した時代であっても、なおかつ道徳的で洗練され続けるのは学校教育のおかげです。少なくともこの国で組織的・継続的に道徳教育を行っているのは学校以外にありません。

 日本の学校はこれだけのことをしながら、なおかつ学力でも世界トップクラスなのです。これで日本の学校教育のレベルが低いなどという人は、よほど世界を理解していないのでしょう。

(続く)