カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「愚かな理性主義者たち」②

「修身」の復活という話題に対して、
「どんな教師が教えても有効な教科書というものが必要になる」
と反応する“識者”たち――この人たちは教育についてまったくわかっていません。

 昨日も示したように道徳的な逸話・物語など世の中にいくらでもあるのです。私たちは年がら年中そうした“いい話”に触れています。
 さらに言えば、日本のようにわざわざ道徳的逸話・物語を集めて教材にするのはむしろダメな方で、諸外国には人の生き方を示す重要で広範で強力な書物がいくらでもあるのです。
 旧約聖書新約聖書コーランハディース、タルムード、小乗大乗仏典、ヴェーダ、バカヴァッド・ギーター、アヴェスタ、経書詩経礼記論語など)・・・。
 それにもかかわらず、人類は平和で道徳的な社会を築けない。なぜそうなのか。
 その答えは簡単です。半世紀前、聖者:植木等(もしくは彼に言葉を与えた聖者:青島幸男)が言っています。人間は、
「分かっちゃいるけど、やめられない!♪」(「スーダラ節」)
 そういう存在だからなのです。

 タバコが健康に悪いと分かっていてもやめられないのが人間です。
 こんなことをしていればいつか破綻すると分かっていても汚職を続けてしまうのも人間です。
 あんな女に引きずられていては埒が開かないと分かっていても未練たらしいのが人間なのです。
 道徳的にどんなに素晴らしい話を聞きどれほど感動しても、それだけで生まれ変わって正しい生き方を始めるなんてできっこないのです。

 掛け算の仕組みを理解しても掛け算ができるようにならないように、バッティング理論に長けても皆がイチローになるわけではないように、自動車の仕組みや道路交通法を学んでも運転できるようにならないように、どんなに素晴らしい道徳的な逸話や物語に出会っても、人は道徳的になったり道徳的活動ができるようになったりするわけはではないのです。
 そこには練習や訓練が必要です。学校は校内におけるすべての教育活動を通して、例えば児童・生徒会活動を通して、学級活動を通して、給食や清掃の中で、あるいは儀式や修学旅行などの旅行行事を通して、繰り返し繰り返し練習し訓練しているのです。そこには“識者”たちの愚かな理性主義では理解できない深みがあります。それが教育です。

「人は、理解すれば行動に移すことができる」
というのは理性主義者たちの誤解です。しかしそうした誤解は案外広く世間に浸透しています。
「子どもはねえ、本当に理解すれば必ずやるものです」「この子は勉強の大切さが理解できていないみたいなんです」「もっとしっかり、わかるように言い聞かせてください」
 これらはすべて「人は、理解すれば行動に移すことができる」という同じ誤解の上に成り立っています。
 そうした目から見ると、教師は「子どもに分かるように話すこともできない馬鹿者」ということになります。
「今の日本の教師のレベルで教えてもなあ・・・」
という言葉はそうした流れから出てくるもので愚かというしかないのですが、しかしそれにしても我慢ならない言葉です。