カイト・カフェ

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「再びゴーギャン」~道徳について

 昔からゴーギャンは理解できませんでしたし、好きでもありませんでした。それでも本物を見ればきっと気に入るだろうという自信はありました。これまで何度もそうした経験をしてきたからです。

 本物の大きさ、絵の具の厚みやかすかな陰影、刷毛跡、表面の輝き、そうしたものは絶対であって、どんな優秀な画集も本物の力を再現することはできません。

 したがって本物に触れることはぜひとも必要なのですが、絵画の場合、それだけでは不十分です。若干の学習をしないと理解できない面もあるからです。

 例えば、ゴーギャンの「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」の場合、縦に三分割して右から「我々はどこから来たのか」「我々は何者か」「我々はどこへ行くのか」に対応する内容が描かれているとか、左端の老婆のモチーフは膝を抱くミイラから繰り返し引用されたものだとか、あるいは作品にたびたび現れる黒い犬は疎外されたゴーギャン自身のシンボルなのだといったことは、絵を理解する上でとても重要なのです(だから美術館では、説明用のイヤホンは是非とも借りましょう)。

 さて「道徳」では、週1時間行われる「道徳の時間」が、この「理解・説明」の部分にあたります。そこでは美しい方や正しい生き方の意味が、言語として表現されます。

 ただし道徳の本体はそこにはなく、絵を見るのと同じように、私たちは本物の美しい生き方を観たり経験したりすることに、より重点があります。そのことによって、「自分も同じように生きたい」「今の自分のような生き方を続けたいと」といった心の動きが起こるのです。

 清掃を一生懸命行う友だちの姿、「来た時よりも美しく」といって野山のゴミ拾いをする活動、人を助ける喜びや助けられる喜び、そうしたものを体験することによって、「道徳」は個人の身体に染みついてきます。

「清く、正しく、美しく」と言いますが、美しさは言語で理解させることはできません。

 私が美しい行為や姿を押し付けたがるのはそのためです。
 強制によって身につくのではなく、強制によって見えるようになるのです。