カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「美しさを身につける」~道徳的であるということの半分の意味

 甲子園もいよいよ決勝戦です。49校中47校の選手が昨日までに涙を流して甲子園の土を持ち帰りました。

 あの土は鹿児島産の黒土と中国産の白土をブレンドしたものだそうですが、ネットで調べましたら、これを供給している播磨セメントという会社が、2006年に1缶(350ミリリットル)150円で、全国のコンビニで売り出そうとしたようです(本当に売ったかどうかは不明)。しかし売れるようなものではないでしょう、意味が違いますから。

 甲子園で全力で戦って敗れ、泣きながら土をバッグに詰める姿を、馬鹿らしいと感じる感性は間違っています。しかし子どものころ、初めてあの光景を見たときはやはりピンと来ないものがあったはずです。
 世の中には時間をかけて学ばないと分からない美というものがあるのです。

 私は子どものころ、紅葉の美しさというものが分かりませんでした。死にかけた葉の、ウンコ色の斑(まだら)が美しいはずはないと思っていたのです。同様にピカソの絵やマーラーの音楽を、初めて観たり聞いたりした瞬間から美しいと感じるようなら、それはよほどたくさんの学習を知らず知らずのうちにしてきた人だけです。普通は理解できません。ゴッホの「黄色い部屋」だって、デッサンの下手な画家が絵の具不足のために黄色ばかり使って描いた絵です。要するに「美しさ」というものは言葉で説明できないものであり、良いものをたくさん見たり聞いたりすることによって理解できるものなのです。

 さて、いつも申し上げている通り、道徳には「他人に迷惑をかけない」という側面と同時に、「それは美しいか」という両側面があり、後者は忘れられがちです。しかし、椅子に足を上げて食事をしてはいけないとか、裸であちこちを歩いてはいけないとか、乱暴な言葉で話してはいけないとかいった道徳は全て「美しさ」に関わるもので、それらを「よいもの」と感じるには、美しい立ち振る舞いや生き方をたくさん経験するしかありません。

 例えば、無言でひたすら清掃に打ち込む「無言清掃」もそれです。清掃というさっぱり面白くない活動に黙々と取り組む姿は、甲子園の球児と同じように美しいのです。

 仕事やスポーツにひたすら打ち込む姿は、みな美しい。学校の1日の生活の中で、清掃はそれを教えるのに最も都合のよい時間だと、私は考えます。