カイト・カフェ

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「愛がすべて」~家族をつなぐものが”愛”しかないという不安

 家庭の教育力が低下したのでその回復をどう図るか、という議論があります。しかしもしかしたら教育力だけではなく「家族」自体がなくなるのではないか、そういう方向で歴史は動いているのではないか、という話を先日耳にしました。

 それによると、

  • 血縁の最小単位が一緒に住む、という家族の形式は、たかだか800年ほどの歴史しかない。

  • それ以前、普通の人々は村の一部として生き、上流の人々は「通い婚」「妻問い婚」という形で生活の単位をつくっていた。それがなぜ、家族という仕組みが取られるようになったかというと、家族には以下のようなメリットがあるからです。
  1. 自分の暮らす場(=家)で、家事労働と生産行動(主として農業)という二つの仕事を同時に果たすには、一定数以上の集団が必要であった(だからひとりで生きるということは、まだ難しかった)。
  2. 病気の時の保障として、自分が休んでいる間、誰かが自分のために働いてくれる必要があった。
  3. 労働力としては無能な「子どもたち」の面倒を、誰かが専業的に見る必要があった。またそれを労働力として仕上げる仕事(=教育)も、誰かがある程度専門的にしなければならなかった。
  4. 歳を取り、リタイヤしたあと、働けない自分を誰かが支えてくれる必要があった。
  5. 癒しの問題として、安心して心理的に寄りかかれる関係(愛情関係)がどうしても必要だった。

 そういった事情により、生きていく上での保障として、「家族」というシステムが選び取られたというのです。
 ところが、文明は1~4を一気に「社会の問題」にシフトしてしまいました。

 まず、仕事はどんどん外に出て行き、家族で協力して行わなければできない職業はほとんどなくなってしまいました。病気や老後の保障は、もはや家族の問題ではなく社会福祉の問題です。家族に面倒を見てもらわなくても、社会が何とかしてくれます。子どもの養育と教育の問題は、保健所と保育園・幼稚園・学校の連携の中で行われるべきものだ(すくなくとも自分がやらなくてもなんとかなる)と考えられるようになってきています。

 そうなると「家族」の必要性は、5「癒しの問題として、安心して心理的に寄りかかれる関係(愛情関係)がどうしても必要」だけになってしまいます。
 したがって5が達成できないと、その家族関係はまったく無用なものとしてどんどん解消されていきます。また、そもそも愛情関係が保障されないと家族を営もうという気にならないのです。
 まさに「愛がすべて」なのです。

「家族」は、そんなふうに、今まさに終末期を向かえつつある(あと100年もすればなくなるのじゃないか?)というのが私の聞いた話です。

 さて、それが本当だとしてもまだ過渡期です。かつて家族が担ってきたものを全部社会にやってもらおうと要求ばかりしている人もあれば、まだまだ自分でやりたがる人もいます。
 格差拡大社会にあって、どちらが勝ち残るかは、ある程度見えてきます。