カイト・カフェ

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「考える力は必要なのか」〜答えのない問い4

 最近、“考える力”の必要性ということがよくわからなくなってきました。指導要領などで求められている“考える力”のレベルが高すぎて、ほんとうにこれ、すべての児童生徒が目指すべきものかわからなくなったという意味です。

【“考える力”の歴史】

 平成30年度から施行される新学習指導要領は、
 知識及び技能の習得と思考力、判断力、表現力等の育成のバランスを重視する現行学習指導要領の枠組みや教育内容を維持した上で、知識の理解の質をさらに高め、確かな学力を育成。
幼稚園教育要領、小・中学校学習指導要領の改訂のポイント
とあるように、決して知識を軽んじるものではありませんが、一般には、
「インターネットが発達して“知識”がいくらでも掘り出せる時代に、なぜ知識を詰め込む必要があるのか。これからの世界は思考力・判断力・表現力といった“考える力”こそが重要な時代となり、それがないと生きてはいけなくなる」
 そのための指導要領改訂だといった話になっています。 

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 例えば、
 今までの時代はひとつの正解に向かって、最短距離、最短時間でたどり着くことがゴールでした。しかしこれからの時代は、将来の予測が困難な複雑で変化の激しい社会になると考えられており、正解が複数ある、あるいは正解がないことも考えられます。つまり、これまでのように解決のパターンだけ覚えていても通用しない時代になれば、試行錯誤しながら自分なりの答えを見つけていかなければなりません。そのとき、思考のプロセスを知らないと何もできないことになってしまいます。だからこそ、「考える力」が必要なのです。また、これまでは誰かが「課題」を用意してくれて、それを解決するという前提での話でしたが、これからは、課題そのものを探すところから必要になることも考えられ、そういう意味でも「考える力」が重要になります。
(ベネッセ教育情報サイト『第9回:「考える力」はどうはかる? 新時代の子どもたちの評価』)

 しかし“考える力”の強調など、今に始まったことではありません。
 総合的な学習の時間が始まった2000年にも
 総合的な学習の時間 総合的な学習の時間は、変化の激しい社会に対応して、自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てることなどをねらいとすることから、思考力・判断力・表現力等が求められる「知識基盤社会」の時代においてますます重要な役割を果たすものである。文科省「総合的な学習の時間」
と言われました。

 さらにあの悪名高い「ゆとり教育」でさえ、
『「詰め込み教育」と言われる知識量偏重型の教育方針を是正し、思考力を鍛える学習に重きを置いた経験重視型の教育方針をもって、学習時間と内容を減らしてゆとりある学校を目指し、1980年度、1992年度、2002年度から施行された』Wikipedia「ゆとり教育」
のです。

【20世紀・昭和時代の“考える力”】

 “考える力”という言葉自体はありませんでしたが、思考力や判断力、表現力の偏重という傾向は、私が子ども時代の半世紀前ですらあったものです。

 例えば私の学んだ中学校の、1年生最初の数学の授業内容は、「2進数と5進数」でした。コンピュータが身近なものになるずっと以前の話です。
 指導要領にもない内容で、しかし教科担任は数学的な興味・関心、思考力をけるうえで大切だと考えたのでしょう。たしかにおもしろい授業で、おかげで私は数学がいっぺんに好きになりました。
 その中学校では以後も「三平方の定理」の証明コンテスト(定理の証明法を何通り編み出せるか)だとか、希望者のための「超難問図形問題集」だとか、考えさせる授業にいとまがありませんでした。話し合いが励行され、常に「自分の意見」を持つことが求められる――。

 そうした伝統は現在の小中学校に脈々と流れています。
 小学校の四則計算なんて死ぬほど練習問題をやらせ、繰り返し訓練をすればずっと上手くなるのに、計算の構造だとか意味だとか、そうした原理的なことをいつまでもチマチマといじっています。
 理科なども悠長に実験や観察を繰り返し、社会科なんてやたら時間のかかる調べ学習やら発表学習やらに延々と血道をあげているのです。おかげでテスト問題への対応・対策は遅れる、もしくはできない。

 私は二十歳代の大部分を塾講師として働いてきた者ですから、公立学校の教員になりたての頃は、そうした長い長い思考訓練にウンザリしていました。
「そんな部分は適当に端折って(塾ではそうしてきました)、もっと効率よく、たくさんの問題を解いてテストで点数を取れるようにしてやれよ!」
 それがホンネで、“考える力”の大切さを思うようになったのはずいぶん後のことです。

 指導要領や研修会のたびに言われる、
「21世紀は知識だけでは生きていけない」
「真に大切なのは“考える力”だ」
「子どもに思考力・判断力・表現力をつけなければ、その子は生きていけない」
 そうした説明に、身も心も次第に侵食されていったのです。

【“考える力”はほんとうに必要なのか】

 21世紀ももう五分の一近くが過ぎました。しかしベネッセや文科省の記事の言うような、
将来の予測が困難な複雑で変化の激しい社会も
思考力・判断力・表現力等が求められる「知識基盤社会」の時代

もきませんでした。少なくとも私や私の教え子の近辺はそうです。
 ましてや、
正解が複数ある、あるいは正解がない
これまでのように解決のパターンだけ覚えていても通用しない

試行錯誤しながら自分なりの答えを見つけていかなければなりません
といった過酷な時代は、来る気がしません。

 私自身の数十年間に起こった問題のほとんどは、世間によくある類型(パターン)収まるものでした。凡人の人生に起こることは平凡なことばかりなのです。
 1億2600万人も人口のある日本では、誰かが私と同じことをして同じ境遇に陥り、そのためのたくさんの対応策や対抗策を残してくれてあります。中には制度として確立したものもたくさんあります。

 例えば交通事故を起こしたら、一人で悩み、レッカー移動を考えたり修理工場を探したり、あるいは難しくデリケートな相手との交渉をひとつひとつ丁寧にこなしたりといったことをする必要はなく、とりあえず保険会社に電話して指示を仰げばいいのです。
 教員として保護者との間にトラブルを抱えたら、まずすべきは校長先生・副校長先生をはじめとする先輩や同僚への報告・連絡・相談です。きっと誰かが良い対応策を持っています。その上で考えればいいのです。
 私個人が、手探りで、試行錯誤しながら進んで行っていい問題ではなく、制度の整った世界では、むしろそうした独断専行は危険でもあります。

 もちろん医療やITといった先端技術の場や、商品開発や国際政治といったところで働く人たちは、前人未到の荒野で過酷な仕事をしてもらわなくてはなりません。しかしそれはいわばエリートの世界。そんなエリートと私たちを一緒にされてもかないませんし、エリートを育てる教育に私たちの子どもが巻き込まれる必要もありません。

【答えのない問い】

 中途半端ですが、話はこれで終わりです。
 先が分からないのです。

 正直言うと、「考える学習など時間のムダ」なんて小指の先ほども思っていないのです。
 授業で新奇なことに出会い、こころ躍らせ、胸を熱くし、調べ、研究し、友だちと意見を戦わせ、相手を説き伏せようとするのは面白いのです。ワクワクと楽しいのです。
 教師としてはいつもそうした授業を目指してきましたし、教育の世界の先輩たちも、もう半世紀以上前からそうして頑張ってきました。

 しかしそれでも、
「これからの時代、“考える力”をつけておかないと生きていけないよ」
と脅されると素直になれないのです。

 人々が言う“考える力”、ほんとうにすべての子が獲得すべき目標なのでしょうか。