カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「すらすらできることの積み重ね」~振り返ってみれば人間は本当に難しい②

 「分かっていてもできないこと」を、
 「分かっていなくてもできること」に育てることを《学習》という。
  学習には三つの段階があるが、それを経て身に着いたものは、
  普通は失われない、
 という話。(写真:フォトAC)

【「分かっていてもできないこと」「分かっていなくてもできること」】

 人間には「分かっていてもできないこと」と「分かっていなくてもできること」のふたつがあります。
「分かっていてもできないこと」の代表的なものはスポーツで、例えば野球のピッチングに関する指南書といったものはこれまで何百冊も出ていて、今でもアマゾンなどで軽く50冊以上は購入できそうです。しかし50冊のピッチング理論を読んだところで、速く正確な球が投げられるようになるわけではありません。
 
 目上の人には先に挨拶した方がいいとか、自分より力の弱い者が荷物は代わりに持ってあげるとか、お年寄りには席を譲るとか、いつも整理整頓に心がける、健康のためにアルコールの飲みすぎには注意しようとかは、みんな分かっているのになかなかできないことです。
 
 逆の「分かっていなくてもできること」の方もたくさんあります。
 「人間は」で文章を書き始めるとき『「にんげん」の「にん」は「ひと(人)」という漢字、形は「ひととひとがささえあっている形」*1。「にんげん」の「げん」は「あいだ(間)」という漢字。形はモンガマエに「日」』などといちいち考えなくても、普通の大人だったら書けるものです。
 「人間」の「人」はまだしも後ろの方が「間(ま)」なのはなぜかといったことも、知らなくて平気です。意味や理由は分かっていなくても、私たちは文章を書く際に多くの漢字を使い、助詞の「は」や「へ」「を」を書き分け、ほぼ適切に句読点を打つことができます。いちいち「なぜそうなのか」「なぜそこなのか」を分かっていなくてもかまわないのです。
 
 かけ算九九や四則計算、トイレ洗剤などの化学薬品を扱う時の注意事項や自動車運転の手順、冠婚葬祭のあれこれ、人との付き合い方などは、いちいち細かく考えるとさっぱり理由が分からなかったり納得できなかったりすることもあります。
 お彼岸(春分秋分)やお盆にお墓参りをする風習、どれだけの人が根拠を知っているのでしょう? しかしそんなことはきちんと先祖を敬い、先立った家族を敬愛し偲ぶことに比べたら、どうでもいい話です。しかも分からなくても、すべきことはいつかできるようになります。
*1:俗説で、ほんとうは人ひとりが足を広げて立つ様子だそうです。

【「わかる」「できる」「すらすらできる」】

 さて、こうやって並べてみると分かるのは「分かっていなくてもできること」の多くは、広い意味での“学習”によって手に入れたものであるということです。
 まず「分かる」こと、そして分かったけれど「分かっていてもできないこと」を「分かっていなくてもできること」に進化させることそれが学習だったり訓練だったりするわけです。
 なんだかわけの分からない言い方になりましたが、小学校の算数ではこのことをすごく簡単な三語で表現しています。
 「分かる」「できる」「すらすらできる」

 この「分かる」「できる」「すらすらできる」の三つは、すべての学びの根源、必ず通過しなくてはならない“学習の過程”だと私は考えています。
 
 例えば、お年寄りが交通量の多い道路を横断できずに困っている場面に出くわします。このとき、「お年寄りが“困っている”」という事実が分からなければ何も始まりません、「助けが必要だ」と理解できなければ次の行動も起きないのです。ただしこれが案外難しくて、横合いから誰かが走って行って助ける様子を見て、「ああ、あの人困っていたんだ。私が行けば良かった」と気づいたりすることは、私自身が年寄りになったいまでも起こることです。
 
 では分かったら、気がついたら、行動にできるかというとそうでもありません。なかなか勇気のいることで、すぐには動けないこともあります。特に子どものうちはあれこれ余計なことを考えるものです。
《“困っている”という判断が間違いで、声をかければ「まだ助けの必要な齢ではない」というその人の誇りを傷つけることになるかもしれない》
《自分が行かなくても、もっと声をかけたい人が近くにいるかもしれない》
《偽善的で恥ずかしい》
《周囲から誉められたりしたらどんな顔をしたらよいのか――》
 そんなことを考えているうちに機会を逸してしまい、誰かが助けに行ったりお年寄りが道路の中央に歩きたり・・・といったことになりかねません。

 こんなときほんとうは大人がそばにいて、ポンと背中を押してあげたり手本を見せてやるとかすればいいのです。何と言って声をかけるのか、手は繋ぐのか背中に当てるのか、お年寄りが持っている荷物はどうするのか。そんなふうに一度やってみると「できる」段階が終わります。
 あとは練習ないしは訓練です。学校の算数でドリル問題をやるように、似たような場面で積極的に声をかける訓練をします。するといつか、困っている人を見ただけで、何のためらいもなく、すうっと体が動くようになります。それが「すらすらできる」です。

【すらすらできることの積み重ね】

 私たちの日常はこうした「分かる」「できる」「すらすらできる」の積み重ねの上に成り立っています。
 朝、起きて居間に行き、先に起きている家族がいたら「おはよう」と声をかけ、洗面所に行って顔を洗う。冷水のおかげで頭がはっきりしたら、部屋に戻って着替えをし、家族全員分のコーヒーを淹れるのが与えられた仕事なので、黙って台所に行き、それを行います。もう何年も続けていることなので何の問題もなく、身体は自動的に動いて行きます。
 しかしこの一連の動きは、どのひとつをとっても生まれながらできたものではありません。「おはよう」の声掛けひとつをとっても、何度も親から注意をされて身に着いたものです。朝起きたら顔を洗うなどという当たり前のことに、苦労していたのは中高生のころです。もっとも大人になっても洗顔ひとつできない人だっています。ホラ、職場に目ヤニや髪の寝癖をつけたままで来る人っているじゃないですか。
 しかしそれは例外で、一度身に着いた「すらすらできる」は、そう簡単には失われないものです。日々の習慣ばかりなく、職場での身の処し方、話し方。買い物の仕方や食事のつくり方食べ方、自転車の乗り方――逆に言えば、簡単に失わるものは身についていなかったものです。
(この稿、続く)