ガムが辞められない、タバコではほんとうに苦労した、
ギャンブルもゲームも危ういところを回避し続けてきた
自分にはほんとうに中毒体質・中毒気質があると思う。
しかしなぜ、ハマるものとそうでないものとがあるのだ?
という話。(写真:フォトAC)
【ガムが辞められない】
最近、とは言ってもここ半年ほど、ガムを噛む習慣が根付いてしまい、常に噛んでいなくて気の済まない感じになっています。
ロッテ・キシリトールガム(ミント味)、143g(およそ95粒)のボトルを常に3個用意して、1個は仕事部屋(と言っても和室の縁側)、1個は居間、そして最後のひとつは車の中に置いてあります。
基本的に食事の時間以外は必ず口に入っているのですが、歩行中など稀に「口から出したものの次のガムが手元にない」というようなことがあって、慌てることもあります。先日はたまたま室内に1箱しか残っていないのにそれも行方不明になって、イライラしながら探さなくてはならないということがありました。その最中、ふと気づくと自分が思わぬ仕草をしていて、びっくりしました。なんと人差し指と中指、その二本を立てて軽く唇を叩きながら探しているのです。
なんのことかわかりますか? ガムを探しているのにタバコを探す仕草をしていたのです。それがあの立てた二本指です。
40歳前半で肺ガンになってやめたはずのタバコが、今でも恋しいのかもしれません。ふと考えると、今でも遠くから匂ってくるタバコの香りに気持ちの惹かれる自分がいます。
【中毒体質・中毒気質】
中毒体質とか中毒気質というものがたぶんあります。他の人に比べて何かと中毒になり易い気質・体質のことです。
私がおそらくそれで、タバコではほんとうに苦労しましたし、今でも体や心が覚えておいて、どこかでタバコに縛られています。他には、嗜好品・食べ物で言うとコーヒーとそこに入れる砂糖、ミルク。ブラックでは物足りず、大量ではありませんが必ず入れて日に5~6杯は飲みます。
ウィスキーも手放せません。しかし中毒というほどでないのは、アルコールに弱いという別の体質のおかげかも知れません。大した量でなくても簡単につぶれてしまい、体内の多く取り込めません。
麻薬・覚せい剤・大麻などの薬物に関しては――平凡な常識人として、周囲に環境がありませんから見たことも触れたこともありません。しかし近くにあっても絶対に試したりはしないでしょう。この中毒体質・中毒気質では「自分は大丈夫」などと1ミリも思いませんから。
【ギャンブルとゲームは“弱さ”がリミッター】
ギャンブルとゲームに関してもリミッターが備わっていて、とにかく何をやっても弱い。若いころはパチンコと麻雀を相当やりましたがまず勝てない。
競馬は1973年のダービーでハイセイコーを買った後、もう一回だけ何かのレースで1枚買って「ハナ差」もない「鼻毛の差」で負けてから、二度と触らなくなりました。おかげで身上を潰さずに来ています。
電子ゲームの初期はコンピュータにプレインストールしてあったカーレースの「Pod」やロボット対戦ゲームの「電脳戦機バーチャロン」をかなりやったのですが、しばらく離れていたら世間のゲームの水準が上がってしまい、スタートからわずか5秒で負けてしまう対戦ゲームだとか、武器庫で銃器をもらったはいいが倉庫から出られないシューテイング・ゲームとか、とにかく大昔のジョイ・スティック1本でやっていた時代と違ってゲームパッドが扱い切れず、現在は私にとって第一段階のハードルが高くなりすぎて、とてもではないですがついていけないのです。
もともと争いごとは好まない性格で、それも災い(幸い?)しています。
【しかしパズルはハマる】
おそらく単純作業・集中・根気・ルーティーンワーク、そうした言葉に関わる作業は私に向いています。
パチンコや麻雀に熱中できたのもそのためですが、実はパチンコの台の見方や麻雀の配牌からの持って行き方よりも、パチンコの歴史や麻雀の点数のつけ方の変遷といった方面により詳しいのは、やはりこれらの中にあるギャンブル性、偶然性という要素が好きになれないからかもしれません。勝負運にはとことん見放されていますから。
すると残るのはパズルです。
古くはジグソー(パズル)。ピースに建物の模様や小さな人物と言った特徴がある場合はいいのですが、一面の青空とか白壁とかになると似た形のピースを集めて、あとはひたすらはめ込んでみるだけです。しかしいつか必ずピッタリのピースはみつかる――そこがパズルのいいところで、「必ず完成する」「努力が実を結ぶ」という確信があっての努力・集中・根気なのです。
昔、ジグソーパズルのおかげで、自腹で参加した1泊の研修会を投げ出したことがあります。ちょっとした係も任されていたのですが「体調が悪くて遅刻します」と電話し、「医者に行きましたが午後も楽にならないので今日は欠席します」とウソを重ね、「一晩、寝たけれど回復しません。今日も休みます」で二日間の研修と2万円ほどの宿泊・宴会費を犠牲にして「クリムトの“接吻”」(という絵のパズル)を完成しました。さすがに虚しかった。
さらにいけなかったのは「きね子」というファミコン・ゲームでした。
これは1枚のアニメ動画を16分割、24分割、48割と任意に分割し、あとはコンピュータが勝手に一枚一枚をひっくり返したり90度傾けたり、裏返しにしたりうえで画面下にバラバラに並べる、それを画面上部のキャンバスに置いて元の動画に戻すというものです。
例えば最初のステージは「沖を右から左へ走るヨット」お動画で、分割されたある一枚を見ていると、青い空を背景にヨットの帆先が一瞬、逆さに右から左に移動する、その絵を選んで上下をひっくり返し、移動の向きを整え、キャンバスのこの辺りと思しき場所に置く、そうした作業を繰り返していくといつか元のアニメ動画に戻ります。
その最終ステージは、「画面上をイワシの群れのような桜吹雪が舞い踊る」という動画を48分割したものでした。ひとつのピースの中を花弁は一瞬しか通らないので本当に大変でした。それで三日くらい徹夜したと思います。
【なぜパズルには打ち込めるのに勉強はダメなのか】
さて、長い長い前触れでしたが、私が今この年齢でハマっていて話題にしたいのが「ナンバープレース(数独)」という数字パズルです。新聞や雑誌にしばしば乗っているもので、3×3のマス目を縦に三つ、横に三つ並べて全体で9×9のマスをつくり、予め配置された数字以外のマスに1~9の数字を入れていくあのゲームです。
その面白さを語ろうというのではありません。問題は「なぜあんな面倒くさいパズルにいくらでも打ち込めるのに、英語や理科の学習には打ち込めなかったのか」という、極めて汎用性の高い話です。
(この稿、続く)