「17年前の記事より」〜なぜ勉強しなければならないのか(まとめ)

 20数年前、私は大学院で「子どもたちはなぜ、努力すれば成績は上がると分かっているのに努力しないのか」という極めておもしろい研究をしていました。

 勉強以外のこと、例えば恋愛とか出世とかギャンブルとかで、成功や失敗の原因を運や才能ではなく、努力のせいにする人は必ず努力しようとする。ところが勉強だけはそうならない、努力不足のために成績が低かったと思っても努力する気になれない、という先行研究があって、その原因を探ろうというものです。

【子どもたちはなぜ、努力すれば成績は上がると分かっているのに努力しないのか】

 様々な調査や実験の結果、分かったことは三つです。

 ひとつは成績を上げるために必要な努力の量がハンパではないこと。しかも困ったことに、いわゆる「頭の良い子」は少ない努力で向上が見込めるのに、そうでない子ほどたくさんの努力が必要となります。だから前向きになれない。

 なんとも身も蓋もない話です。

 

 2番目は、これまで十分な努力をしてこなかった子は、やっぱり努力できないということ。

 学習習慣のない子は、努力不足と分かっていてもなかなか机に噛り付いていることができないのです。そして何度か決心して、何度も失敗しているうちに、やがて諦めてしまう。

 これも身も蓋もない話ですが、すべての調査研究が終わった後で「これが決め手かな?」と思わないわけでもありませんでした。意欲がギラギラする子より、淡々と数時間も勉強できてしまう子の方がやはり強いのです。

 そして3番目が、勉強をする目的がはっきりしていないこと、つまり「どうして勉強しなければいけないの?」の答えを持っていない子がほとんどだからということです。

 Eテレ「ウワサの保護者会」でも、「星が好きで将来は天体望遠鏡をつくりたいと願う女の子」は、大学のオープン・キャンパスに参加して目標の具体的な姿や道筋が見えるようになったら猛然と勉強し始めます。しかし世の中のほとんどの子どもたちは、そうした目標を持っていないのです。

 実は堀江貴文さんや尾木直樹先生の言う「今は好きなことを伸ばしていった方が有利」「子どもたちの好きなことをしっかり応援してあげる。好きなことだからグーッと広がる」も、おそらくそのレベルの話で、「昆虫が好き」「ロボットが好き」とっいた子どもを積極的に後押しして、そこから未来につなげようということなのです。

 ただし「アイドルが好き」「ゲームが好き」を応援して「生きる力」や「将来」につなげようとするのは、不可能とは言いませんが相当な技術がいりそうで、とてもではありませんが素人向きではありません。

 安易に「好きなことを好きなだけやらせろ」と言えないのはそのためです。

 さらに「どうして勉強しなければいけないの?」の答え、つまり勉強をする目的・目標は、必ずしも職業や未来にかかわるものばかりではありません。「金持ちになりたい」「人を見返してやりたい」「一刻も早くこの家を出たい」など、本質的に指導を入れておいた方がよさそうなものもあります。

 その意味でも「勉強をしなければならない理由」は極めて個人的な問題であって、万人に通用するようなものはほとんどないのです。

「ウワサの保護者会」で教育哲学の苫野一徳氏は「勉強をする理由に絶対的に正しい答えはない」とおっしゃっていますが、それも同じ意味なのでしょう。

【二つの提案と副次的なもの】

 それでも私はこのブログの中で、“万人に通用する(かもしれない)勉強しなければならない理由”を二つ提案をしました。

 

 第一に、

 すくなくとも小学校で学ぶ程度のことは、知っていたりできたりしなければあちこちで困る、苦しいということ。特に学校の勉強が全く分からないまま教室に居続けなければならない子は、本当にかわいそうです。(12/5 「勉強ができないにもほどがある」〜なぜ勉強しなければならないのか�A

 第二に、

 未来は分からない、いま好きなものがずっと好きだとは限らないし、苦手なものが好きになったり必要になったり、あるいは役に立ったりする日が来るかもしれない。

「なぜ勉強しなければならないのか」の答えは、ずっと先、未来の自分の中にあるのかもしれません。(12/6 「人はいつまでも同じではない」〜なぜ勉強しなければならないのか�B

 

――ひとつ言い忘れました。

 中学校の勉強には、副次的に「小学校の学習を完璧にするため」という意味もあるのかもしれないのです。

 教員試験を受けるころ、「プロジェクト法」だとか「コア学習」だとか様々な学習理論を学びましたが、結局のところ定評があるのは「繰り返し学習」と「過剰学習」だけです。

 「繰り返し学習」は読んで字のごとく、何度も何度も繰り返して学習し身に着けようとするもの、「過剰学習」は必要量の2割増し、5割増しで学習することです。

 公文式が典型ですが、小学校6年生までの学習内容を学んでおけば4年生までの内容は完璧にできる、といった考え方です。100点を取るために120点分の勉強をしておく(およそ出題されそうにない細かな点まで練習しておく)というのも同じです。

 中学校の難しい教科書が読めるようになると小学校の教科書はすらすら読める、中学校で方程式が曲りなりにも解けるなら小学校の「□(四角)を使った計算」はまず間違えない、そんなふうにして、「絶対に身に着けてほしい小学校の学習内容」を完璧にする。

――そんな目論見があるかどうかは分かりませんが、現実としてそうなっています。

「子どもの勉強も小学校の間は見えてあげられるけど、中学生になると・・・」

とおっしゃる親御さんはたくさんおられて実際に一緒に宿題を見てくださったりしますが、その親御さん自身が小学校6年生のとき、そこまで勉強が分かっていたかどうかは疑問です。6年生には6年生の学力差がありますから。

 しかし中学校3年生以降の段階で小学校のテストをやらせれば、もうこれはほとんど全員が“楽勝”ということになるでしょう。

 3年も余計に勉強したから小学校6年生までの学習はその後も定着している――私はそう思います。

 話を戻します。

「なぜ勉強しなければならないか」の“万人に通用する(かもしれない)答え”は私が長年追い求めてきたものです。今回は二つ絞り出しましたが、他の人に聞けば別の考えもあるかもしれません。

 そういえば17年前にもこんな文章を書いていました。

「子どもにやる気を出させるにはどうしたら良いのか」 (「ああ言えばこう言う辞典」ケース・バイ・キース 7 学力問題)

 それを再録して、答えの3といたします。

【「なぜ勉強しなければいけないのか」の答え、その3】

 医者になるため、弁護士になるため、といった目標を持たせることは「何のため」の重要な答えです。

 けれど、高校以上の(中学の学習の一部だって)学習が、つきたい職業の必須条件だったり役立ったりする例は稀です。

 学問で生きる人間はそうは多くないのです。

 ではほとんどの子どもに共通する「何のために」の答えは何なのか……。

 それについて、最近私はかなり感触の良い答えを手に入れましたので紹介します。

 それは、

「いつかキミの助けを必要とする人が目の前に現われたとき、その人を助け、救うためには、今学んでいる知識や技能が必ず必要になる」

ということです。

 すぐに思いつくのは彼らがやがて結婚し生まれてくるだろう子どもたちのことです。

 その子たちが算数や国語で困っているとき、今の勉強は直接的に役に立ちます。小学生に勉強を教えるのに小学生程度の知識では足りません。微分積分といったおよそ算数とは関わりのなさそうなことまで学んで深い数学的感覚を身につけていないと、それは果たせないことです。

(私たち教師が今も勉強を続けなければならないことが、子どもたちに勉強を教えることの難しさの証拠です)

 子どもが次ぎから次ぎへと発する疑問、

「カブトムシはどこに住んでるの?」

「太陽系ってなに?」

「1個しかないケーキ、どうやってみんなに分けたらいいの?」

……そういった疑問のひとつひとつに、一緒に悩んでいてもしょうがないのです。

 しかしそんな遠い将来、そんな直接的なことでなくても、今学んでいることが必要になるケースはいくらでも考えることができます。

 誰かに悩みを打ち明けられてそれに答えるためには、それこそ山ほどの本を読んでおかなければなりません。

 ある日突然、開発途上国の人々を援助しようという気になっても、何の技術もない人間にはやってあげられることがありません。

 友だちが大きな借金を抱えて困っているときに、どう言って助けてあげたらいのでしょう?

 帳簿の計算がどうしても合わなくて困っている友だちに対して、キミは一体何をしてあげることができるのか?

 これが生きることの意味にはならないと思いますが、中学生であることの意味にはなるでしょう。

 吉田松陰は十歳にも満たない時期から「お前が一日怠けると、萩藩領民の苦しみが1日伸延びる」と怒られながら勉強したそうです。

 まさか普通の子にそこまでは要求できませんが、目の前の問題に深く心をとらわれている子どもたちに、「愛する誰かのため」といった視点を与えてやることは、かなり重要なことだと考えました。

 これで子どもたちが勉強に向かいようになるかは自信ありませんが、私が人生からくみ取ってきたこととして、できるだけ多くの子に伝えたいことです。

                           (この稿、終了します)