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「震災報道を通して、自国の評価は180°変わった」~13年目の3・11に際して③

 震災のもたらしたものは災厄だけではなかった。
 最悪の状況でも冷静さと秩序を守り、自らに他を優先し、
 逞しく生きようとする日本人の姿は、世界中に報道された。
 「日本ブランド」が、彼我で承認されたのは、この時期のことだ。
という話。(写真:フォトAC)

【震災の中にも見えた光】

 2011年の日本は散々な状況にありました。地震津波だけでも絶望的だったのに、そこに福島第一原発の事故が重なり、通常の災害とは全く違うものになって、復興が大きく遅れるだろうことは誰の目にも明らかでした。多くの外国人が日本を脱出して経済活動は停滞し、外国人観光客の姿も見えなくなりました。日本産の農産物・魚介類の輸出は激減し、いまも制限をやめない国があります。
 しかしそれだけの傷を負いながらも、私たちに光が全く見えなかったわけではありません。希望の光は確かにあって、しかもそれは強く美しく、確固とした輝きを持っていました。日本人というブランドが広く知れ渡ったことです。

【2011年3月11日午後の日本】

 あれほどの災害でありながら、3月11日の午後から夜にかけてのテレビニュースは妙な方向を向いて不思議な静けさを保っていました。民放はかなりの時間をお台場の火災に振り向けていましたし、九段会館の天井が剥がれ落ちたといったニュースも繰り返し放送されていました。鉄道が片っ端とまってしまった東京都内では空前の帰宅ラッシュが始まっており、それに関する報道にも多くの時間が割かれました。
 
 あとで気づくのですが、あれほどの大災害になると、ほんとうに深刻な場所からの情報は、ほとんど上がってこないのです。停電が広範囲に及び、幾本ものアンテナが倒れると、まず通信が途絶えます。VTRや原稿を持って直接届けようとしても、道路も鉄道も使えません。映像として使えるものと言えば、自衛隊や警察が撮影した空撮映像がほとんどで、とてつもなく大きな被害が出ているだろうと想像はされるものの、生身の人間の見えこないとどこか曖昧です。
 そんな中に夜の気仙沼港の大規模火災の様子が映し出されると、否が応にも慄然とさせられるのですが、それすらも現実感がなく、どこか日本中が暗中模索の感じでいたような気がしていました。
 ところがほぼ同じ映像を見ていながら、まったく違うところに焦点を当てて目を見開いていた人たちがいます。海外の人たちです。

【冷静を保ち、秩序を守る】

 まず彼らを驚かせたのは、新宿駅や東京駅の周囲にできたとんでもなく長いバス待ち・タクシー待ちの行列でした。いつ果てるとも分からない長蛇の列が延々とならび、それを乱すものがいないという不思議さ、奇妙さ――。
 奇妙と言えばほとんど身動きできないまでに車道に溢れた車たちが、あちこちで軋轢を起こしているはずなの、威嚇するクラクションの音がほとんど聞こえてこないのです。後にある人はそのときの様子を、「まるで無声映画を見ているようだ」と表現していました。
 車が溢れているのに誰もクラクションを鳴らさないという風景は、おそらく日本以外ではほとんど見られないものなのでしょう。
 
 翌日になると被害の状況はすこしずつ見えるようになり、さまざまな日本人の行動が海外にも伝えられるようになります。まず驚かされたのは暴動や略奪が全く起こらないという不思議。人々は水や食料やガソリンを求めて、あちこちで長い行列をつくりますが、誰一人先を争ったたり盗んだりしません。職業的窃盗団が出没し、広大な被災地の一部では不道徳な行為や犯罪があったことも事実ですが、全体としては微々たるものです。
 
 どうしても略奪や窃盗の記事が欲しかったテレビクルーは、店舗ごと潰れてしまったコンビニで待ち伏せ、ものを取りに来た女性を捉えて、
「それ、持って行くんですか? お金払いませんよね」
などとマイクを向けて視聴者の大顰蹙を買ったりしました。
 津波で流れ着いたコンテナから食品を運び出して分けた人もいれば壊れた自販機から飲みものを取り出した人もいます。今回の能登半島地震では自販機を意図的に壊して避難者に配った人が名乗り出ていたりします。しかしそうした行為を略奪だの窃盗だの言い出したら、ひとは生きて行けません。そこまで高い道徳性を求めるのは、一部のマスコミだけでしょう。

【他を優先し、節度を守り、強く生きる】

 やがて本格的な支援物資が届くようになり、特にアメリカ軍の「トモダチ作戦」が始まると、寸断された道路のその先にある集落にも、空輸で大量の物資が届けられるようになりました。しかしようやく食料品などを手に入れることのできた人々も、必要最低限の量を確保するとそれ以上はい受け取らず、別な人たちのもとへと届けるよう依頼するのが普通でした。
 どう見ても八十過ぎのお年寄りが、瓦礫に囲まれた病院救出されると、「私はもういいから、他の人を助けに行って」と救助の手を振りほどき、逞しく歩いて行く姿などは、ほとんど神々しくてむしろ嘘ら寒いほどでした。

 家や家族を失った悲しさ切なさは万国共通です。しかしそんな中を、「仕方ない」と振り切って逞しく立ち上がる自立的な人々の姿を、カメラはたくさん捉えて世界中に発信し続けました。あれが悪いこれが悪い、あそこが助けてくれない、ここにもやってくれないなどと、いつまでもウジウジ言っていないのです。

【震災報道を通して、180°変わった自国の評価】 

 日本人の資質が試され、その美しくも逞しい国民性が世界の津々浦々まで知られるようになったことが、2011年の震災の、ほとんど唯一の慶事でした。
 それまでも海外に駐留する人々にとって「日本人」そのものがブランドで、日本人だという理由だけで人々から信頼されたり面倒な手続きの一部が省略されたりすることがある、という話はしばしば伝えられてきました。何十年もの時間をかけて先人たちが培ってきたブランドです。それが震災報道を機に世界中の共通認識となり、日本国内に戻ってきたのです。
 
 週刊誌やテレビが繰り返した「日本、スゴイ!」といった特集記事や番組は、あまりにも節度がなくて下品ですが、それでも震災前の、「日本の悪口さえ言っていれば評論家や文化人の仕事ができる」といった雰囲気とは180°異なり、大災害に崩れかかった私たちの自信と誇りを、十分に支えてくれるものとなりました。
(この稿、続く)