カイト・カフェ

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「世界一やさしく、安全で、きれいな日本。しかし昔からそうだったわけではない」~13年目の3・11に際して④

 私は日本を「世界一やさしく、安全で、きれいな国」だと思っている。
 しかし昔からそうだったわけではない。
 日本がそうなったのは、ほんのここ数十年余りのことで昔は違った。
 ある組織が、意図的に、時間とエネルギーをかけてつくり上げたのだ。
という話。(写真:フォトAC)

【世界一やさしく、安全で、きれいな国】

 2012年以降、2020年に新型コロナで大きく落ち込むまで、訪日外国人観光客は毎年うなぎ上りに増えていました。それも東日本大震災をきっかけに、日本人の美質が広く海外に紹介されたことと無関係ではないでしょう。
 日本は安全安心の国で、人々は基本的にやさしく親切で、無害な人たちばかりです。買い物や食事で騙されたりぼったくられたりする心配はほとんどなく、いつも盗まれないようにバッグを抱きしめている必要もありません。街はきれいで、公共交通を使っている限り、予定が狂ったり、電車が遅延したりすることもありません。
 何もかも安心して旅行の楽しめる国なのです。
 たいていの日本人はそれが当たり前だと思っていますし、昔からそうだったに違いないと思って、「日本人の国民性」だの「DNAに刷り込まれた」だの言いますが、そんなことはありません。

【昔から日本人が立派だったわけではない】

 私が学生だった1970年代、東京の空はいつもどんよりとくすんで暗く、稀にスカッと晴れたかと思うと、とつぜん目がチカチカと痛み始め、喉が詰まって酷い時は手足がしびれ出すことがありました。「光化学スモッグ」と言っても今は何のことか分かりませんよね。
 御茶ノ水駅付近の神田川は真っ黒に淀んで異臭を放ち、見るとポリバケツやらスチロールやらがいくつも浮かんでいます。その様子をお茶の水橋から見下ろしてから、目を転じてあたりを見回すと、かなりの数の男たちが歩きタバコで歩道を歩いていたりします。まったくの日常ですから緊張感も薄れ、ノースリーブの女性にぶつかって肩に火傷を負わせるといった事故も少なくありませんでした。もちろん吸い殻は路上に投げ捨てです。今や昔物語ですがタバコの吸い殻はきれいに散らばって路上にあるのではなく、雨が降るたびに車道の端、歩道の横に集まってきて、いくつもの綿みたいな塊をつくるのです。冬や春先はそこにスパイクタイヤに削られて粉塵となったアスファルトが積もり、車が通るたびに舞い上がって息もできないほどでした。
 日本はきれいな国などと、とてもでは言えたものではありません。

 人々が列をつくることについても、古い本にはこんな記述があります。
「列車発着の際における乗降客の混雑は常に見るところで、乗客の狭き出入り口において内よりいでんとする者と外より入いらんとする者とが同時に先を争い、はなはだしきは乗客と降客とが互いに行く手に立ちふさがり、空しく押し合うことすらある」(玄田作之進「善悪長短日本人心の解剖」1916;大倉幸宏著「昔はよかったというけれど」(2013)より孫引き)
といったありさまでした。昭和2年生まれの私の母に言わせると、
「日本人が並ぶのが上手くなったのは、戦争で何もかも配給制になって、あっちでもこっちでも並ばなきゃいけなくなったせいだよ」
ということのようです。

 しかしそうやって乗った列車の車内も大変なで、タバコの煙がモウモウ、傍若無人に大声で話す者、酒盛りをする者も絶えませんでした。東京―大阪間がオール電化されても7時間半もかかった時代ですから、持ち込みや駅弁で食事を二回食べる場合も少なくなく、大量のごみが生れます。するとそれらはすべて座席の下に置くのが習わしですから、列車が揺れるたびに通路側に出て来て、それはもうたいへんなありさまでした。
 そのころ教育を受けていた私たちが、山手線でペットボトルを床に置いたまま下車する若者に眉を顰めるのですから、いい加減なものです。

 ついでにもうひとつだけ紹介しておきますと、太平洋戦争前、日本で小口の国内運送が十分に育たなかった理由のひとつは、作業員による抜き取りが横行したためでした。現在のように箱の一部すら欠けたり潰れたりしてない完全な荷物が、抜き取りもなく届くなど、奇跡に近いことだったのです。
 日本人は、昔の方がはるかに不衛生、不道徳、不誠実だった、それは間違いないことです。ではいつからここまで過剰に道徳的な民族は育ってきたのか――。

【人間づくりのベースはやや高かった】

 ただ、最初から同時代の諸外国よりはマシ、という面もあるにはありました。
 例えば19世紀のロンドンやパリでは、室内で用を足してオマルに入った人糞尿を窓から表道に投げ捨てる習慣がありました。おかげで一部は壁に跳ね飛んで張り付き、多くは石畳の石の隙間をちょろちょろと流れてテームズ川やセーヌ川に流れ込んでいたようなのです。その同じ時期、日本の江戸では長屋や大名屋敷などの人糞尿が農家によって買い取られ、郊外に運ばれて肥料とされたため市内はすこぶる衛生的だったのです。
 そこには高温多湿な気候のために衛生管理をよほどしっかりやらないと、すぐに病気が蔓延してしまうという、経験から得た知識があったからかもしれません。また、基本的に農耕民族で集団として統一性や秩序がないと生産ができないという事情もありました。
 しかしそれでも、現在のような高い道徳性を築くには、中央集権的で画一的な、そして丁寧で強力な指導・教育がないと成り立つものではありません。では誰がそれをしたのか。

【誰が日本人を育てたのか】

「自分の汚した場所は自分で掃除」
「旅先では来た時よりも美しく」
「きちんと並びなさい」
「順番を守りなさい」
「仕事は分担し、協力するものです」
「挨拶は人間関係の潤滑油として大切なものです」
「身だしなみを気にしましょう」
「人知を上回る大切な何かが、この世には存在します。時には恭順の意を示しなさい。儀式は大事です」
「情けは人のためではありません、巡り巡って結局自分のところへ返ってくるものです。憎しみも、悪意も、同じように戻ってきます」
「誰かのために生き、誰かのために祈りなさい」
「命を大切にしましょう。その第一歩はあなた自身の命です」
 そういったことを、北は北海道宗谷岬から南は沖縄与那国島まで、全国同じように、たっぷり何年もの時間をかけて、精一杯情熱を傾けて教育した組織があります。日本人を日本人に育てるために、個人的な時間もエネルギーも、ときには私財までも投げ込んだ人々がいます。それは何か、誰か? ――そう考えていくと、答えはひとつしかないことがわかります。
(この稿、続く)