最近は聞くことがなくなりましたが「ヨーロッパの人々は古いものを大切にするが、日本人はどんどん捨ててしまう(だからダメだ)」という言い方がありました。日本や日本人を悪く言えば評論家として食えていた時代が長く続いていたのです。口を開けば「自虐史観」と言いたがるマスメディアがありますが、日本の風俗・習慣についてマスコミは一貫して自虐的でした。
ところで、先述の「ヨーロッパの人々は古いものを大切にするが、日本人はどんどん捨ててしまう」は、ほんとうでしょうか。
少なくとも前半については、私はおそらく事実だと思います。なぜなら新しくしようがないからです、あんな石造りの街では。
最初に泊まったホテルで壁の厚さを計ったらざっと50センチもありました。窓から内壁までの厚さです。こんな建物を建て替えるとなると、壊すだけでとんでもない費用がかかりそうです。建物を造るなら郊外の空き地に新しい街をつくる方がよほど安上がりで、そうなると古い街はそのまま残ってしまいます。もちろん内部も古いままです。家具も調度も古いものの方が良く似合います。しかし日本はそうではありません。
白川郷の古民家のような立派なものならまだしも、普通の民家は数十年で簡単に使い物にならなくなります。火事にも地震にも弱い。日本人の建物は永遠ではないのです。
建物は繰り返し更新される。そうなるとありとあらゆる新しいものが入ってきます。冷蔵庫も家具も買いなおそうという動きが起きます。一軒一軒がそんな状態ですから街全体ももろい。東京のような大都市でさえ大震災と空襲で二度に渡って更地化してしまいます。
日本人は新しい物好きでヨーロッパ人は古い物が好きというのではなく、自然にそうなってしまうのです。
ついでに電線の埋設化というもの、最近では日本でも都市部でだいぶ進んできましたが、以前からヨーロッパに特徴的なものでした。あの無粋な電柱と電線のない街、それは昔から日本人にとってあこがれでした。
「ヨーロッパの人々は都市の景観にも配慮する。だから電線の埋設化にも支出を惜しまない(日本はダメだ)」
そんなふうに言われてきましたが、あれだって実際のヨーロッパの街をみれば違うことはすぐにわかります。イタリアの街に電柱を立てる余地などほとんどないのです。
石造りで道路を拡張するなんてほとんど不可能。幹線はともかく一歩脇道に入ればどこもかしこも狭い道路で一方通行ばかりです。石畳の道が歩道と車道が分かれているのはさすがですが(昔は馬車道ですから分かれていないと相当に危険だったのでしょう)、そこに電柱など立てたら人も車も動けなくなってしまいます。電線の埋設化は景観のためでなく、そんな事情から始まったに違いありません。
街は理念だけでつくられるものではありません。そこに住む人たちの生活から始まるものです。それも観てきて初めて分かることです。
しかしそんなこと、昔の評論家たちは私以上に分かっていたはずなのに、なぜ正しいく伝えようとしなかったのでしょう。
(この稿、続く)