教員があれほど働くのは、
つまるところ子どもを愛しているからだ。
――その単純な原理が理解されないから、
いつまでたっても話が噛み合わない。
という話。(写真:フォトAC)
13年前、このブログに次のような記事を書きました(*1)。リンクを張るだけではなかなか読んでもらえそうにないので、そのまま書き写します。
【「教師は愛している」~その当たり前のことが、世間の人たちには分からない】
ある本(*2)の中で、評論家の尾木直樹が、「遠足にウチの子のお弁当を作ってくれ」と頼まれた担任の話を書いています。
無体な保護者の要求に思わず
「それで作ったんですか?」
と尋ねるとその女性教師は
「ええ、作りました」
と答えます。さらに驚いて「何で作ったりしたんですか」と畳みかけると
「だって、その子、遠足に行けなくなってしまう・・・」。
その時になって初めて、尾木はその担任がクラスの子を愛していると知るのです。
尾木というのは教職経験のあることを売りにしている評論家ですが、教師が子どもを愛しているという事実をその日まで知らなかったのかもしれません。
先日、ある会合で酔ってロビーに出たところで、運悪く知り合いの市会議員に捕まってしまい、そこでしばらく話をしました。そこで議員が盛んに不思議がるのは、
「先生たちはどうして親たちのあんな理不尽な要求を、まじめに聞くのですか」
ということでした。
市会議員ですから、そうした情報は私たち以上に耳に入ってくるのです。こんな場合、世間の大方は教育委員会が怖いから言うことを聞くのだろうと思ったりしますが、そこは市会議員、教育委員会がそんなものではないことは百も承知です。だから不思議がるのです。
そこで私はこんなふうに答えておきました。
『よく親たちは、「(学校に)子どもを人質にとられているから言いたいことも言えない」と言ったりしますが、担任も親に「子どもを人質にとられている」と感じているのです。
教師は、子どもは親と学校が心から手を携え、協力して育てていかなければ絶対にうまく育たないと確信しています。だから保護者とは絶対にケンカしたくないのです。親と決裂すると、その子に関するどんな教育も成り立たなくなります。どんな協力も得られなくなります。親とケンカしたことの不利益は、教師や学校が負うのではなく、その子が全身で背負わなければならないのです。だから担任はそうとうなところまで我慢します。理不尽を理不尽と跳ね除けることができないのです』
議員は「そんなものですか」と、理解したようなしないような顔で去って行きました。
教師が貴重な休日を、部活や各種競技会のために片っ端つぶしてしまうことも、夜遅くまで熱心に教材研究を続けているこことも、保護者からの電話が鳴れば何時間でも熱心に相談に耳を傾けることも、それらが仕事だからでも、金のためでも、ましてや出世のためでもなく、ただ、ただその児童生徒を伸ばしたいという愛情から出ているのだということ、それは世の中の人には呆れるほど理解できないことのようです。
学校と世間の溝を埋めるのは、なかなか容易ではないのかもしれません。
【非常識なほどに優しい人々】
学校の常識は世間の非常識といったりしますが、私がアルバイト時代も含めて10年近い社会人経験を経て30歳で教員になった時、一番びっくりしたのは、教師たちが本気で子どものことを愛していて、子どものためなら大抵のことはやってしてしまうだろうという事実です。飲み会の席でも、2次会・3次会と、果てしなく教育と子どもの話をしています。
学校なのだから当然だと先生たちは思っている様子でしたが、今も昔も、他人の子どものために時間もエネルギーも、時には金銭さえも無制限に犠牲にして立ち向かうという存在は、まさに「世間の非常識」そのものでしょう。しかもそのことを《世間》は知らないのです。
最近になってようやく教師の多忙、過重労働は人々の知るところとなりましたが、それでもなお、なぜあれほどまでに働くのか、仕事が多すぎるのか、ひとが足りないのか、はたまたモンスター・ペアレンツがうるさいからなのか教育委員会が怖いからなのか、そのあたりをグルグルと巡って原因を探っているだけで、最終的には皆、あまりピンときてはいません。
しかし私は答えを持っています。繰り返しますが、それは先生たちが子どもたちを愛しているからなのです。子どもを育てる教育という仕事を愛しているからです。そうとでも仮定しないと、あの異常な働き方は理解できません。
【学校も教委も子どもを守りたい】
今はいじめが社会問題になると学校はさっさと認め、教育委員会が代表して深々と頭を下げて謝罪しますが、かつては言を左右にしてなかなか認めないのが常でした。
認めないのは学校が警察でも検察でもないため有効な捜査手段をもたず、また授業の合間にしか調査ができないのでなかなか事実がつかめないという事情があったからです。しかしもっと重要な点は、学校が大した調査もできないくせに「いじめ」と認定してしまうと、加害者と目される子どもが二度と地域で生活できなくなってしまうからです。加害者なのだからそれくらいの目に会ってもいいと言うのは外部の論理で、そう簡単な問題ではありません。
《いじめ》はたいてい複雑な構造をもっています。学校としては単純に極めつけて、その子の人生を抹殺することはできないのです。
もっとも最近はできるだけ早く認め、教委がさっさと頭を下げてしまう方が子どもの利益と分かってきて、あっという間に謝罪するようになってきています。早く謝って早く終わりにしてしまうことが、早く忘れてもらう一番の方法だと分かって来たからです。
都道府県庁の教育委員会代表が、髪の薄い頭を深々と下げて謝罪するのは、現場の学校からマスコミをできるだけ遠ざけておきたいからでしょう。現場に行くより都道府県庁の方が良質の情報を簡単に手に入れることができるとなれば、マスコミは皆そちらへ行ってしまいます。
教委もまた、子どもや保護者を世間の生贄にすることをしません。守りたいのです。
(この稿、次回最終)