カイト・カフェ

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「人間には自分を殺したりダメにしたりする権利はあるのか」~囁く天使と怒れる菩薩③

 つまるところ問題はそこだ。
 「人間には自分を殺したりダメにしたりする権利はあるのか」
 それがあると思えば誰も深追いをしない。
 しかしそうでないとしたら、どこまでも関わらなくてはならない。
 日本は後者の国だ
という話。(写真:フォトAC)

【人間には自分を殺したりダメにしたりする権利はあるのか】

 遠回りをするようにウダウダ言っていますが、私がいま考えているのは、「人間には自分を殺したりダメにしたりする権利はあるのか」ということです。

 安楽死は認められるべきか、自殺は是か非かといった難しい問題に足を突っ込む気は、いまはありません。自傷自損も対象外です。そうではなく、もっと軽い段階のもの、例えば成年に達して何年もたつ人間が新たに喫煙を始めることとか、糖尿病患者が甘いものに手を出すこととか、あるいは大きな橋の欄干を綱渡りのように歩くようなことなどは、本人の意思を尊重し、個人の権利として認められるべきかという程度の話です。それを止めようとすることは人権の侵害なのかどうか――。
 
 ただ、そんなふうに書き始めてすぐに気づくのは、この問題、前提のちょっとした違いで答えもずいぶん違ってくるのかもしれないということです。新たに喫煙を始めることと糖尿病患者が甘いものを食べるのとではまったく意味が違います。同じ糖尿病でも病状や年齢によって、あるいは患者が自分自身なのか、家族なのか、友人なのか単なる知り合いなのか、それによってすべて違ってくるでしょう。
 だから答えが簡単に出ないことは重々承知なのですが、それでも問うてみたいのです。
 あなたは、友だちが、家族が、子どもが悪い方向へ進もうとするとき、どこまで止めようとするのか。

【天使は人間の自由意思を尊重する】

 おそらく西欧の合理主義は、
「ある程度は止めるが、最後は自己責任、本人の意思を尊重するのが人権を守ることだ」
と、そんなふうに言うでしょう。その判断の根拠の片隅には、あの守護天使います。
守護天使は)人が自由意思を悪の方向に用いようとした時にも、それを止めさせることはしない。

 ヨーロッパ生まれアメリカ育ちの人権思想は、弱者を徹底的に保護し、指先ひとつの小さな傷さえ見逃さず、空港で親が子どもを怒鳴っているだけでも通報されるような厳しさで、必ず処罰すると容赦ありませんが、その実、最後の部分では「でも結局、自己責任だからね」と放り出す感じがあります。
 だから虐待も暴力も殺人もなくならず、銃も減らないのです。とことんつき合って最期まで面倒を見るという感じではありません。ルールをつくり守らせる仕組みをつくって、それでもダメな人間は処罰するか放逐するだけ、極めて父性的です。

【日本は甘い国】

 しかし日本は違います。良くも悪しくもお節介で手が多く、丁寧でしつこい。ある種盲目的で極めて母性的です。
 「人間には人生を台無しにしたり殺したり、自分自身をダメにしたりする権利もある」などとは露ほどにも思ったりしません。転ばぬ先に杖を持たせ、危険な道を避けるよう手配し、戦うための十分な資金や能力を持たせようとする、それが日本のやり方です。
 疑うなら刑務所の見学に行ってみればいいのです。私は行ったことがありますが極めて教育的な場所で、刑務官は銃などかまえておらず、テレビで見たアルカトラズやアブグレイブとはまったく違います。
 もちろん甘い場所ではありませんし、試みが100%うまく行っているという訳でもありませんが、受刑者の気持ちを落ち着かせ、見方考え方を変更させ、確かな技術を身に着けさせたうえで保護司や後見人をあて、二度と刑務所に戻ってこないよう手配してから実社会に送り出すのです。
 それが日本のやり方です。そもそも犯罪の現場で簡単に犯人を撃ち殺さないところから、教育的で道徳的で、かつ独創的な国ではありますが――。

【教師が自らの首を絞め始める理由】

 刑務所と並べて書くのは気が引けますが、日本では学校も同じです。教師のやろうとしているのは、児童生徒の気持ちの安定を図り、ものごとに対する基本的な見方考え方を養い、確かな学力と健康な体を培って社会に送り出すこと――そこでもちもちろん父性原理も働きますが、主として用いられるのは母性原理です。しかも強すぎほどに強い。
 
 非常に心配性で、細かなことにも手出し口出しをしたがります。もしかしたら自分が手塩にかけた子どもたちが社会に出てから、なぶり者になったり潰されたりするとい幻想に苦しめられているのかもしれませんが、まさに「転ばぬ先に杖を持たせ、危険な道を避けるよう手配し、戦うための十分な資金や能力を持たせようとする」のが日本の教師なのです。
 その点を理解しないと、部活や行事に熱中し、時間外の生徒指導に走り回り、宿題や日記を丁寧に見て、次第に自分で自分の首を絞めるようになってきた教師の在り方は分かりません。
 (この稿、続く)