「雪の日の暗い空の下で思いだしたこと」~良きことはすべて子どものところに残してきた

 雪のせいか何か心が沈み、身体も重くなります。めったに過去を振り返るということのない性質ですがこうなると何かと想いが昔に向かいます。

 現職中、私は人生の半分を学校教育にかけ、もう半分を自分の子どもの子育てに尽くしてきたと考えていました。他に何もしてこなかった。
 大した趣味もあるわけではなし遊びに出ることもほとんどなく、家族や学校以外に夢中になる何かを持ってもいませんでした。それで寂しいと思ったことも、これではいけないと考えたこともありません。だからそれでよかったのですが、 近ごろ、別の想いに捉われることも少なくありません。
 学校時代のことについて嫌なことばかり思い出すのです。

 何かで失敗したこと、人に嫌な思いをさせたこと、さまざまにうまく行かなかったこと・・・。
 30年も教員生活を送っていたわけだし全体としては大過なく全うできた、それなりに一生懸命やっていたから何らかの成果もあったし人の役に立ったこともあったに違いない。いまだに連絡をくれる元生徒もいるのですからまんざら嫌われたり疎まれていたわけでもないだろう、なのに良いことは何も浮かんでこないのです。
 もう教員だったときのことはいい。もしも墓碑銘を刻むなら、自分の墓は
「彼は子の親となり、子を育てた」
だけでもいいのかなと思ったりもします。

 しかしそんなふうに考えているうちに、ふと思い出したことがあります。それは私が小学校の教員免許を取ろうとしていたころ、指導教官をやってくれた先輩の先生の言葉です。
「この仕事、例えばT先生がね、ものすごく苦労して、子どもの逆上がりができるようにしたとして、そのときその子は家に帰って、『先生のおかげで逆上がりができるようになった』とは絶対に言ったりしないよ。
『ボクできるようになった』だけだ。そして親も『先生ありがとう』などと考えたりしない。その子に向かって『頑張ったね』と言うだけだ。自分の努力がまるで見えない、そういうことに耐えられなければ、この仕事はやっていならないんだ」

 そう言えば教師の仕事の大半はそういうものです。
 音楽会や運動会、中学校の文化祭などはすべてうまく行くように教師が周到に計画し、準備し、訓練する。けれど最後は「子どもたちの頑張りと集中力でここまでできた」という擬制に押し込めるのです。教師の手やそのあとが見えたり残ったりするようではまだまだなのです。教師の姿が見えなくなるまでやってその仕事は完成ということになります。
 しかし失敗したこと、うまく行かなかったこと、その結果だれかに迷惑をかけたこと、それらは計画がずさんだったり準備が不十分だったり、あるいは訓練が不足していた結果ですからすべて教師の責任です。責任を取らされるという意味ではなく、全過程を責任もって行っているのは教師だからです。

 そして私は少し安心し自分を慰めます。
 すべて良きことは児童生徒と保護者の勝利として預けてしまった、だから自分のところには残っていないのだと。
 実際にはそうでもないのですけどね。