カイト・カフェ

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「教師の慈悲、学校のお地蔵さんと観音さん」~囁く天使と怒れる菩薩⑤

 たいていの教師は、慈悲の心をもって子どもに向かう。
 より苦しみの少ない、楽しい未来を創ってあげたい――。
 そう考えてあちこちを飛び回り、さまざまな姿勢で、
 子どもたちに相まみえる。ただそれだけのことだ。

という話。(写真:フォトAC)

【教師の慈悲】

 仏が衆生にもたらすものは慈悲です。
《慈悲》は一般的な日本語では目下の者に対する哀れみや慈しみですが、本来の仏教用語としては「他の生命に対して楽を与え、苦を取り除くこと(抜苦与楽)を望む心の働き」Wikipedia)を言います。日本の学校教師が児童・生徒に対して感じ、自らの活動のエネルギーとしているのが、まさにこの《慈悲》――子どもの今と将来から苦を奪い、楽を与えたいという願いです。それが普通の教師の在り方です。

 「他の生命に対して楽を与え、苦を取り除く」というと獣医や樹木医も含めた医師たちの姿が思い浮かびますが、教師が医師と異なるのは教師の場合、軸足が半分以上「今の子どもたち」から「将来の子どもたち」に移っていることです。予防医学というものもありますから、患者やその他の人々の未来に向けて、医師も指導・教育をしたりすることがあるでしょう。しかし目の前に苦しんでいる患者がいるとき、「がんばれ、私が見守っているからとにかくがんばれ」と言って何の処置もしないということはまず、ないでしょう。とりあえず目前の苦痛を和らげるのが仕事です。
 ところが教師の方は、しばしば見守るだけで具体的に助けることをしなかったりします。さらに言えば、気楽で安らぐ状況にいる子どもをわざわざ運動場に引きずり出して、「さあ、このハードルを越えてみろ」みたいな無茶を平気でしたりするのがこの仕事です。
「さあ、この問題を解いてみよう!」
「さあ次はこの課題について考えよう!」
「全部終わったら掃除をしよう!」

 そんな問題やる気になるか! 掃除なんかしたくないといった対応は許されません。いまのその子の辛さ苦しさと将来のその子の辛さ苦しさは瞬間的に天秤にかけられ、たいていの場合は今の苦しさの方が軽いと判断されてしまうからです。
 だって大人になって誰もが知っていることを知らなかったら恥ずかしいじゃないですか、課題を出されて「分かりませ~ん、どう手をつけたらいいのかも知りませ~ん」では見捨てられるじゃないですか、せめて気が回って自分の机上くらいきちんと整理できて掃除もできれば可愛がられるのに、それすらもできなかったら居場所がなくなっちゃうじゃないですか。
 え? いざとなったらできるって? それ、教師がいちばん信じない言葉ですよ。日ごろ宿題さえもきちんとできない子が、受験期になったら突然、毎日8時間も集中して机に向かうなんてこと、ありえないじゃないですか。

 だから教師は静かに学ぶことを強く迫る、そこそこで諦めたりしない、自己責任だのと言って見放さないのです。それが教師の《慈悲》――楽を与え、苦を取り除くことなのです。
 どんなやり方でやるのか。

【学校のお地蔵さん・観音さん】

 かつて子どもたちから“お地蔵さん”と呼ばれ慕われた地蔵菩薩は、釈尊(釈迦またはゴータマ・ブッダ)入滅後、弥勒菩薩が成仏して弥勒仏になるまでの56億7000万年の無仏時代を守るため、世界をあまねく巡回して回るような菩薩です。自らが成仏して仏(ブッダ)となることを放棄しているため、丸坊主に法衣だけの修行僧姿です。人が死んでから向かう地獄や餓鬼道などの六つの世界(六道)を巡るため、六つの姿をもって表現され、だから六地蔵と称されることもあります。
 とにかくどこにでも行く、そして必ず救う。鎌倉時代には殺人を生業として死後は地獄に行くしかない武士と、そして子どものまま死んで親を悲しませたためにその地獄にさえ入れてもらえない子どもたちから慕われ、地蔵菩薩像は全国に広まります。地獄にさえ行ってひとを救う、賽の河原で石を積む子どもを救う、特に子どもの方はその手から漏らすことはない――それが地蔵菩薩です。

 一方、不空羂索観音衆生の悩みや状況に応じて変化(へんげ)する観世音菩薩のひとつの姿で、憤怒の相の馬頭観音などとともに、煩悩に対する激しい怒りをもって有無を言わさず衆生を救う菩薩です。体に巻いた縄や布で限りなく多くの衆生を救おうとするのです。
 仏典によって観音菩薩は六つの姿を持つとも七つの姿を持つとも言われ、あるいは15・16・17、さらに33もの異なる姿に変わって、それぞれの悲しみや悩みに応じて救うと言われています。学校にだって慈母観音のような優しい先生も、千手観音のような八面六臂の活躍をされる先生も、そして馬頭観音のような怖い先生もいます。それぞれ役割をもって、十重二十重に児童生徒を囲み、道を誤らないよう、力をつけるよう、そして健康に育つよう気を付けているのです。

 私は教員時代、地蔵菩薩のようになりたいと思い、不空羂索観音のようでもありたいと思っていました。そんな教師は昭和平成にはざらにいましたし、今もいるのです。しかし教員の働き方改革を考えたときは、それが問題なのです。
(この稿、終了)