「校則の原則」〜ブラック校則をなくせ 1

「ブラック校則をなくそう」という運動が始まったそうです。 「昔の常識でつくられた校則が子どもたちを苦しめている。新しい時代の校則はどういうものか、社会全体で議論したい」2017.12.17毎日新聞『茶色の髪問題契機「ブラック校則なくそう」運動スタート』)  そういう趣旨らしいのですが、この主題、「ブラック校則」というネーミングが新しいだけで、古くから繰り返し出されてきたものです。  遡れば1990年(平成2)の神戸宝塚高校校門圧死事件に端を発した全国的な大校則見直し運動などが思い起こされますが、当時私の勤めていた学校が「丸刈り強制」「女子のリボン結び強制」を撤廃したほか若干の改正で済ませたのに対し、近隣の大校が大胆な削減に踏み込み、おかげでわずか数か月で学校がボロボロに荒れてしまったのを見ているので、安易に「校則をなくせ」とは言えないのです。  その学校は正常な授業ができるようになるまで5年もかかってしまいました。問題は不正常な学校に入学してまっとうな授業も受けられないまま卒業していった生徒が何百人もいるということです。学校の責任は重いというしかありません。 【校則に教育的効果は関係ない】  毎日新聞の記事では、  評論家の荻上(おぎうえ)チキさんは、こうした校則について「教育効果が確かめられていない理不尽なルールが多い。違反した生徒を公然と非難するなど、不適切な指導とセットで運用される」と指摘した そうですが、校則の教育的効果の確認なんて簡単にできるものではなく、例えば「女子の髪は肩の高さまで」といった校則を作ったら成績が上がったとか非行が少なくなったとか、調べようがないじゃありませんか。子どもを取り巻く教育条件なんてゴマンとありますから、何が影響したかなんてわかりようがない。  あるいはもっと大まとめで、「A群には厳しい校則を、B群には緩やかな校則を与えたところ、A群は全員不良になりました」などといった実験はできないのです。こんな実験をやったらA群の親は烈火のごとく怒ります。  もともと校則なんて教育的効果を上げるためのものではなく、“必要”がその主因です。小学生として中高生として、学校で、集団で、学習し生活するために“必要”だからつくられるのです。  ではどんな必要性があってあのような細かい校則はできるのか――これについては以前別のところに書いたことがありますが改めて簡略化してお話します。 【校則にはどんな意味があるのか】  一般に校則と呼ばれるものには四つの意味があると考えられます。  まず第一は集団の秩序を守るためのものです。 「遅刻をしてはいけません」とか、「授業中は静かにしましょう」といった類のものがそれにあたります。ただしそれは違反があったとき、校則を盾に「ここに書いてあるからダメだ」といった言い方で指導するためのものではありません。 そこに示されているのは行為の基準だからです。  第二に危険回避のためものがあります。「ベランダに寄り掛かるな」「右側通行をしなさい」「廊下は走らない」などがそれです。これについては説明の必要はないでしょう。  三番目に平等を守るためということがあげられます。  中学校の場合、義務教育であるから原則的にすべての子どもが来なければなりません。そうである以上、学校はすべての子が来られるだけの条件整備をしておかなければならないのです。  学校給食はそのような理念のもとに始められましたし、制服が長く存在価値を保っていることにはそのような意味もあります。弁当の中身によって生徒が無用な劣等感を持つことがないように(親の劣等感の問題もありますが)、有名ブランドや高価なコートが買えなくても安心して学校に来られるよう、そういった配慮が校則に盛り込まれているのです。  第四は、服装の乱れなどによって生徒個々の心の揺れを発見できる、ということがあげられます。誤解のないよう言っておきますが、だから校則をつくるというのではありません。付随的にそのような効能を持つという意味です。 「服装の乱れは心の乱れ」という言葉は教師によって好んで使われ、それだけに批判の多いものです。  もちろん服装が乱れれば心が乱れてくるというものではありませんし、どんな服装をしていてもしっかりしている人はいます。こうした話題では数学者の秋山仁さんや作家の志茂田景樹さん、あるいは無名とはいえ奇天烈な格好をした東大生などが引き合いに出されますが、それは極めて特別な例です。  一般的には、学業や部活動に熱中している生徒は服装のことなどにあまり気をつかいませんし、校則に多少の不便や不合理を感じていても、教師や親と対決し、同級生や世間の冷たい視線に耐えてまでそれを行なうことはしません。子どもであっても時間にもエネルギーにも限界があり、「服装の決まり」に挑戦することは、けっこう面倒なことだからです。  しかしそれにもかかわらずあえて校則に挑戦するような生徒とはどのようなものなのでしょう。  服装に異状が生じたり髪が赤くなってきたりしたとき、教師はとりあえずその生徒の心を怪しんでみます。この子は異装をしたり髪を染めることで何を表現しているのだろう、と。それが「服装の乱れは心の乱れ」です。  もしかしたら「勉強が分からなくなってきたよォ」「勉強に身が入らないよォ」と叫んでいるのかもしれません。あるいは「学校内で『その他大勢』になるのはイヤなんだ」「褒められたいんだ」「非行に走っちゃうよ」、そう言っているのかもしれません。あるいは「ボクを見ていて、じっと見ていて、ボクだけを大事にしていて」と叫んでいるのかもしれない。  経験を積んだ熱心な教師なら、必ずそこになんらかの問題を発見し、それに対処し援助しなければならないと考えるでしょう。  子どものサインを見落とすなという言い方がありますが、服装の乱れはまさにこの「サイン」なのです。同時に40人近い児童生徒を前にして、その気持ちの揺れを発見しようとすれば、サインの発信装置は多ければ多いほどよい。服装や髪型などに関する規定はその中でもっとも有効な発信装置なのだ、と教師たちは考えているのです。  それらの基準は学校ごと統一され明文化されなければなりません。  個々の担任が自らの判断によって「級則」とも言うべきクラスの決まりをつくりはじめると、そこに不公平が生じるからです。またよほど担任が豪腕でない限り「自分のクラスの厳しい基準」は「隣のクラスのゆるい基準」に浸食されますから、成文化されないと学校全体のレベルが著しく低下してしまうという事情もあります。  その結果がああいった大量の「校則」ということになります。 【で、現実問題としては?】  さてここまで話すと、 「原理原則はわかった、しかし『通学は徒歩以外、許されず、水分補給も禁止』みたいな校則に何の意味があるんだ?」 みたいな話になりますよね?  実は、そこには、深〜〜〜い意味があるのです。                             (この稿、続く)