カイト・カフェ

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「特殊教育用語について」②〜そのままのキミでいい

 不登校への指導の過程で「子どもには『そのままのキミでいい。死にたいくらい嫌なところへは行かなくてもいい』そう言ってくれる人がいることが大切だ」とか「変わらなくてもいい。今のままのキミで十分に愛されているんだと伝えてあげなければいけない」といった言い方が出てきます。
 しかし教員には(そしてたぶん大方の親にも)、これはとても分かりにくい言い回しです。だって「そのままのキミでいい」なら教育など必要なくなってしまうからです。教員にとっては、それこそ自己否定に繋がりかねません。

 親から見れば、何とか学校にいって欲しいと願う気持ちを踏みにじり、毎日期待させ、毎日裏切り、膨大な時間の浪費と気苦労をかける“キミ”が、「そのままでいい」とはとても思えないのです。愛していないわけではないのですが、その状況で「愛している」と伝えるのはとても困難です。
 私はずっとこの言葉の意味をつかみかねていました。

 愛情と能力をリンクさせるなという点は分かります。「頭のいいあなたが好き」「よい子で世間から誉められるオマエなら愛している」では子どもがかないません。
  もちろん実際、私たちはしばしば保護者からそうしたメッセージが強烈に送られているのを見ていますし、私たちにしても子どもが「先生は良い子ばかり可愛がる」と言ったらそういうメッセージを嗅ぎ取られている(誤解にしても)と見て間違いはないでしょう。
 しかしそういったメッセージを発している時間はさほど長いものではなく、普通の生活の普通の時間の中では、愛と能力をリンクさせていないはずです・・・と、そんなことをつらつら考えているうちにふと思い出したことがあります。それは初任のクラスが崩壊状態にまで荒れたとき、先輩の教師からいただいたひとつのアドバイスです。

「クラスを荒らしている一番悪いヤツをまず決め、その子の机を毎日磨け。『オマエが大事』『オマエが好きだ』『オマエのおかげで仕事ができる』そう言いながら丁寧に磨け」

 打つ手が完全になくなり困り果てていた時期でしたので、私はほんとうにそれをしました。一週間ということはなかったと思います。二週間だったか一ヶ月だったか記憶にないのですが、とにかく毎日、放課後になるとそれをして帰りました。
 それで何が変わったか。

 それでその子が愛せるようになったわけではありません。しかし少なくとも憎しみは消え、“迷惑だ”と思う気持ちは薄れました。そういう効果はありました。そしてそれはたぶん、その後の指導に大いに影響したはずです。

 不登校だったり学級を荒らしたりしているときの子どもは、当然「自分は親(教師)から憎まれている」「嫌われているに決まっている」、そんなふうに思っています。しかしそれはそうではないのだ、行為と存在は違うのだ、たしかに悩ましく苦しくたいへんだが、それで嫌うことも疎ましく思うこともないのだ―それを伝えるのは容易ではありません。
 そのためにはおそらく口先の言葉ではなく、自分自身の愛情のオーラを高めるしかありません。ちょっとした目の表情とか口元の緩みとかそういったものの集積です。

 今同じことが起こったら、私はもう一度机を磨こうと思います。磨きながら呟く言葉にもう一工夫すれば、もっともっと強い愛情のオーラを発することができるようになると、今の私は思います。