日本に仏教の入ってきた初期、それはずいぶん学問的なものだった。
南都(奈良)の6宗派はむしろ6学派と呼ぶべき中身で、
僧は6つの学部を忙しく走り回る学生みたいなものだった。
それを国家が強力に後押しする。
という話。
南都(奈良)の6宗派はむしろ6学派と呼ぶべき中身で、
僧は6つの学部を忙しく走り回る学生みたいなものだった。
それを国家が強力に後押しする。
という話。
(「東大寺」PhotoACより)
仏教の勉強をしたいという息子のために、簡単な授業を始めました。
個人的な家庭内の勉強ですが、もしかしたらこれから京都・奈良に修学旅行で生徒を引率する先生や歴史学習のバックグラウンドとして仏教の知識が欲しい先生、あるいは教員でなくても“ちょっと仏教をかじってみようかな”と軽い気持ちで思っている人にも役に立つのではないかと思い、しばらくここで話してみようと思います。
【仏教受容問題の決着――篤く三宝を敬へ】
仏教伝来について高校時代に「仏教、ここに(552)、ござは(538)った」とかいって、552年説と538年説のあることを覚えました。最近では538年説の方が有力みたいですが、実際にはどうでもいいことで、それよりはるか以前のいずれかの時代から、渡来人によって持ち込まれていたのは間違いありません。
ただし仏教を公式に受け入れるかどうかはけっこう厄介な問題で、なかなかうまく進展しませんでした。それは仏教の受容問題が豪族たちの権力闘争と結びついていたからです。
古くからの有力豪族である物部氏や中臣氏はいわば保守派で仏教拒否、日本の神優先。それに対する新興曽我氏は渡来人との関係も深いため仏教派で、両者がっぷり四つに組んで互いに譲りません。
西暦585年、蘇我馬子が疫病に罹ると、物部守屋は同じ疫病のために気の弱った敏達天皇を動かして仏教禁止令を出させ、仏像と寺院を破壊します。
ところが仏に祈り続けた蘇我馬子はほどなく回復し、神に祈った敏達天皇は崩御してしまうというとんでもない事件が起こります。どうやら白木一本の日本の神様より、光り輝く金ピカの仏様の方が神通力がありそうなのです。
翌年、焦って攻勢に出た物部守屋を蘇我馬子が逆転で撃破。とりあえず“神か仏”かの問題に決着はつきますが、その後も燻り続け、701年に聖徳太子が「この国は仏教でいく」と宣言して終了します。
「17条憲法」の二がそれです。
「篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり」
ただし仏教を公式に受け入れるかどうかはけっこう厄介な問題で、なかなかうまく進展しませんでした。それは仏教の受容問題が豪族たちの権力闘争と結びついていたからです。
古くからの有力豪族である物部氏や中臣氏はいわば保守派で仏教拒否、日本の神優先。それに対する新興曽我氏は渡来人との関係も深いため仏教派で、両者がっぷり四つに組んで互いに譲りません。
西暦585年、蘇我馬子が疫病に罹ると、物部守屋は同じ疫病のために気の弱った敏達天皇を動かして仏教禁止令を出させ、仏像と寺院を破壊します。
ところが仏に祈り続けた蘇我馬子はほどなく回復し、神に祈った敏達天皇は崩御してしまうというとんでもない事件が起こります。どうやら白木一本の日本の神様より、光り輝く金ピカの仏様の方が神通力がありそうなのです。
翌年、焦って攻勢に出た物部守屋を蘇我馬子が逆転で撃破。とりあえず“神か仏”かの問題に決着はつきますが、その後も燻り続け、701年に聖徳太子が「この国は仏教でいく」と宣言して終了します。
「17条憲法」の二がそれです。
「篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり」
【奈良の寺院は単科大学】
こうして仏教は日本の国教になったわけですが、当初の日本の仏教導入はかなりまじめなものでした。
これも大学入試のときに必死に暗記したものですが、「南都六宗(なんとりくしゅう)」と呼ばれる奈良の6仏教宗派は、現在の仏教とはずいぶん趣を異にし、宗派というより学派という印象の強いものでした。
例えば律宗は、読んで字のごとく「律(仏教団の規則)」を中心とした宗派で、戒律の研究と実践を旨としています。日本では渡来僧・鑑真和上の唐招提寺がその頂点にいました。
同じく三論宗は「三論」という仏典を中心に仏教概論を研究する宗派で、成実宗は成実論を研究し、法相宗は唯識論の研究、倶舎宗は「倶舎論」、華厳宗は「華厳経」を研究する立場にありました。
華厳宗の総本山・奈良東大寺は、だから華厳経の世界を体現する毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ=奈良の大仏)を造らなければならなかったのです。
南都六宗を考えるうえで印象が合うのは、それぞれが「律」を学んだり「三論」を学んだりする単科大学で、学生僧はひとつの大学にこだわるのではなく、同時並行的にあちこちで学ぶことができたというものです。
奈良仏教は学問的雰囲気の強いのが特徴で、法隆寺も正式には「法隆学問寺」といいます。
これも大学入試のときに必死に暗記したものですが、「南都六宗(なんとりくしゅう)」と呼ばれる奈良の6仏教宗派は、現在の仏教とはずいぶん趣を異にし、宗派というより学派という印象の強いものでした。
例えば律宗は、読んで字のごとく「律(仏教団の規則)」を中心とした宗派で、戒律の研究と実践を旨としています。日本では渡来僧・鑑真和上の唐招提寺がその頂点にいました。
同じく三論宗は「三論」という仏典を中心に仏教概論を研究する宗派で、成実宗は成実論を研究し、法相宗は唯識論の研究、倶舎宗は「倶舎論」、華厳宗は「華厳経」を研究する立場にありました。
華厳宗の総本山・奈良東大寺は、だから華厳経の世界を体現する毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ=奈良の大仏)を造らなければならなかったのです。
南都六宗を考えるうえで印象が合うのは、それぞれが「律」を学んだり「三論」を学んだりする単科大学で、学生僧はひとつの大学にこだわるのではなく、同時並行的にあちこちで学ぶことができたというものです。
奈良仏教は学問的雰囲気の強いのが特徴で、法隆寺も正式には「法隆学問寺」といいます。
【宗教の経済学】
話は少し寄り道しますが、宗教学者の島田裕巳氏によると、現在の日本は新興宗教にとって氷河期なのだそうです。
最近で新興宗教が大いに力を持っていたのは昭和バブルの時代。そのころ名を馳せたのは言わずと知れたオウム真理教、白装束のパナウェーブ研究所、法の華三法行、ライフスペースといった人々、海外でもアメリカでブランチ・ダビディアンという宗教組織が立てこもり事件を起こしたりしていました。
多くのカルト教団が膨大な信者を抱えて急成長し、社会的に注目もされていました。それは今から思えば、物質的には豊かでも心寂しい時代だったからだと説明されます。
しかし平成不況がやってくるとまもなく、多くの教団が力を失っていきました。お布施に持ち寄る金品が激減し、人々は心寂しさや不安といった抽象的なものから、衣食住といった具体的なものへと“悩み”の対象を替えていったからかもしれません。
宗教はしばしばその時代の経済状況や支配層の在り方を反映します。
奈良時代はすべての富が天皇家に向かっていきましたから、天皇が鎮護国家(*1)という理念を掲げて仏教を守護し始めると、巨大古墳を生み出したような在来の宗教はすたれ、南都七大寺と総称される国立寺院(*2)や藤原氏の氏寺である法隆寺のような私立寺院が、大いに栄えるようになります。そして南都(奈良)の僧たちも次第に権力を持ち始めます。
*1・・・鎮護国家(ちんごこっか):仏教には国家を守護・安定させる力があるとする思想。
*2・・・東大寺,西大寺,法隆寺,薬師寺,大安寺,元興寺,興福寺
聖武天皇の天平時代は特に災害や疫病が多く、常に内乱の危機にあった上に、成立間もない律令制度にもほころびが見られ、人々の恐怖は絶頂に達しようとしていました。
11年の歳月と莫大な国費をつぎ込んで毘盧遮那仏(奈良大仏)を中心とする東大寺を造営したのは、そうした恐れの反映であり、天皇はもちろん、仏教を信仰するすべての人々の期待の上にあの巨大な伽藍はできたのです。
(この稿、続く)
最近で新興宗教が大いに力を持っていたのは昭和バブルの時代。そのころ名を馳せたのは言わずと知れたオウム真理教、白装束のパナウェーブ研究所、法の華三法行、ライフスペースといった人々、海外でもアメリカでブランチ・ダビディアンという宗教組織が立てこもり事件を起こしたりしていました。
多くのカルト教団が膨大な信者を抱えて急成長し、社会的に注目もされていました。それは今から思えば、物質的には豊かでも心寂しい時代だったからだと説明されます。
しかし平成不況がやってくるとまもなく、多くの教団が力を失っていきました。お布施に持ち寄る金品が激減し、人々は心寂しさや不安といった抽象的なものから、衣食住といった具体的なものへと“悩み”の対象を替えていったからかもしれません。
宗教はしばしばその時代の経済状況や支配層の在り方を反映します。
奈良時代はすべての富が天皇家に向かっていきましたから、天皇が鎮護国家(*1)という理念を掲げて仏教を守護し始めると、巨大古墳を生み出したような在来の宗教はすたれ、南都七大寺と総称される国立寺院(*2)や藤原氏の氏寺である法隆寺のような私立寺院が、大いに栄えるようになります。そして南都(奈良)の僧たちも次第に権力を持ち始めます。
*1・・・鎮護国家(ちんごこっか):仏教には国家を守護・安定させる力があるとする思想。
*2・・・東大寺,西大寺,法隆寺,薬師寺,大安寺,元興寺,興福寺
聖武天皇の天平時代は特に災害や疫病が多く、常に内乱の危機にあった上に、成立間もない律令制度にもほころびが見られ、人々の恐怖は絶頂に達しようとしていました。
11年の歳月と莫大な国費をつぎ込んで毘盧遮那仏(奈良大仏)を中心とする東大寺を造営したのは、そうした恐れの反映であり、天皇はもちろん、仏教を信仰するすべての人々の期待の上にあの巨大な伽藍はできたのです。
(この稿、続く)