カイト・カフェ

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「たぐい稀なる道徳の国」~日本と韓国③

 大国に蹂躙され続けた韓国・北朝鮮は、道徳的優位によって国を保つことに決めた
 「日本はもっと謙虚になるべきだ」「日本は無礼」はそうした高い位置からの言葉なのだ。
 対外的に日本だけを責めるのは卑怯なことではない
 しかしそれにしてもどうしていったらいいのだろう
というお話

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 (韓国 ソウルのカンナム 江南の町並み)

 

【たぐい稀なる道徳の国】

 1月9日付中央日報コラム「韓国と日本、その永遠の平行線」京都大学小倉紀蔵教授の口を借りて次のように言います。

 ここまでやるかと思うほど「正しい・正しくない」を追求する韓国人の道徳指向的心理構造を理解しないことには、韓国人と韓国社会を本当に把握し説明することができない

 以下しばらく、中央日報は小倉教授の著書『韓国は一個の哲学である 〈理〉と〈気〉の社会システム』を下敷きに、韓国国民の精神世界を説明しようとします。
 朝鮮は国家の基本理念として、南宋朱熹が完成させた性理学を受け入れた。天理と人間道徳の完ぺきな一致を追求した性理学を基に、朝鮮の天才たちは針ひとつ入る隙のない精緻な理論を作り出した。(それが)理気論だ。

 韓国人の精神世界を支配しているのは朱子性理学というただ一つの哲学だ(中略)人々の言葉と行動をひたすら道徳(最近の言葉では正義)というものさしで裁き、徹底して優劣をつける道徳還元主義が彼の言う韓国人の道徳指向性だ。

 

【超道徳国家の誕生】

 なぜそうなったのか――。それは、

 強大国に取り囲まれた地政学的条件で、朝鮮は力より道徳で武装する道を選んだ。丙子胡乱(丙子の乱)の侮辱を受けても、朝鮮は清を女真族「蛮夷」の国だと内心蔑視して中華文明の真の継承者を自任した。旧韓末の世界史的激変期にも朝鮮は「衛正斥邪」の旗の下、国の門を堅く閉めて性理学を手放そうとはしなかった。壬辰倭乱文禄・慶長の役)の残酷な戦乱を起こした日本に対しては蛮夷国・倭よりも道徳的に優位にあるという自閉的道徳優越主義で対抗した――からだというのです。
*丙子の乱・・・1636年から1637年にかけて、清が李氏朝鮮に侵入し制圧した戦い。李氏朝鮮は屈辱的な講和条件を飲み込まざるを得なかった。
*衛正斥邪・・・李氏朝鮮邪教・邪説を排して国家の「正学」である朱子学を守ろうする考え。対外的には攘夷思想、国内的には純化の思想。

 文大統領が「日本はもっと謙虚になるべきだ」と言ったり国防省の広報官が「日本は無礼」などと言ったりするの背景はがここにあります。

 歴史と領土問題をめぐって両国がぶつかるたびに、それでも日本では少数であっても韓国の肩を持つ声が出てくるが韓国は全くそうではない。韓日間の葛藤事案に関する限り、韓国には思想と良心の自由、表現の自由が事実上存在しないと言っても過言ではない。このような現実を植民支配の傷だけで説明することができるだろうか。道徳より現実を重視する日本に道徳のものさしだけ突きつけているから互いに接点を探せない。永遠の平行線だ。

 私は5年前のセウォル号沈没事件の際、政府の対応に憤った被害者家族が現場近くのペンモク港からソウルまで徒歩で抗議の行進を始めたというニュースを聞いて、正義を求める韓国人の恐ろしいまでの思いに身震いしたほどです。さらに数か月後、一周忌をめぐるニュースの中で、なんとその時点でもペンモク港脇の体育館に居座って抗議を続ける人々がいるのを知って、ほんとうに恐れ入ったのです。
 正義は――厳密に言えば理気論による正義は、韓国国民のアイデンティティそのものであって、これを取り下げることは民族を解体を意味するのかもしれません。

 しかし一方、そう結論すると(私自身も昨日書きましたが)それだけ強い道徳心が、なぜ日本にばかり向けられて中国や北朝鮮には向かわないのかということが問題になります。
 朴槿恵前大統領は日韓関係について「被害者と加害者という事実は1000年たっても変わらない」と言いましたが、それを言うなら中国・北朝鮮軍がプサン近くまで攻め込んだのも歴史的事実ですし、天安沈没事件延坪島砲撃事件も歴史的事実です。それなのになぜ彼の国は責められず、日本ばかりが言われるのか――。
 しかしそれには合理的な説明があるのです。

 

【正義の使い分けは卑怯ではない】

 いまから2500年ほど前の古代インドには、支配的宗教であるバラモン教に反対する6人の異端者がいました。これを六師外道(りくしげどう)と言います。ついでですが仏教の始祖のゴータマ・ブッダはここでは7人目の異端という位置づけになります。
 その六師うちの一人、マハーヴィーラは「何も断定しない相対主義」のジャイナ教を打ち立てます。重要な教義のひとつは徹底した不殺生です。

 彼らはありとあらゆる生物の命を重要視しますから、誤って空気中の虫を吸い込まないように小さな布切れのマスクをつけ、水も濾過して飲み、小さな虫を踏みつぶさぬよう箒で地面を掃きながら歩いたと言われています。動植物を殺さないと布は作れませんから彼らは衣服も身に着けることができず、裸で生活します。裸形派と呼ばれる人々です。

 しかしそした徹底的な不殺生の行き着くところは餓死ですから、そうなると信徒全員が本気で教義を守ったらあっという間に教団は全滅してしまいます。教えを後世に残すこともできません。
 そこで教団は在家には餓死に至るような断食を禁じ、白衣を許し、普通に近いの生活を送ることを求めます。白衣派の出現です。いわば教義を守るために教義を緩めたのです。

 韓国の正義も同じです。
 現在でも四大強国(日・ロ・米・中)という日本人には耳慣れない言葉が紙面に踊る韓国――その歴史は常に周辺の大国に踏みにじられた残酷なものでした。中央日報の先の記述以降も、日清・日ロ戦争で大国に弄ばれ半島の一部は戦場にもされています。そして長い日本統治時代を終えたかと思ったら朝鮮戦争で南北分断が固定化されてしまいます。

 そんな状況で韓国人特有の過剰な正義感をそのまま発露したら、個人も組織も、あるいは民族そのものさえもひとたまりもなかったのかもしれないのです。そうなると正義の実現も永久に不可能になってしまう。
 つまりこちらに利のないときは黙って耐え、その時が来たら“正義の鉄槌”を下す――それが正義を確実に実現する唯一の方法です。

 日本についてはその時が来ています。韓国は十分な経済力・軍事力をつけ、日本と対等に渡り合えるところまで来ました。いまこそ「オルバルダ(その時は合っていて、今は間違っていること)」を「ヨクサ(歴史)パロ(真っ直ぐに)セウギ(立てる)」ときです。

 しかし中国・北朝鮮は違います。韓国の喉元に匕首を突きつけているこれらの国に鉄槌を下す時期はまだ来ていません。国の生殺与奪の権を握るアメリカに対しても同じです。

 

【どうしたらよいのか】

 さて、このような熱烈な道徳国=韓国とどのようにつき合っていけばいいのでしょう。
 韓国中央日報の記者は最後に、
  日帝強占から解放されて70年が経ち、1人当たりの国民所得が3万ドルを越えたといっても、我々の精神世界はまだ道徳性の純度をめぐって血をほとばしらせながら戦った朝鮮時代の水準から抜け出せずにいる。道徳のものさしだけで日本を裁いて日本を「敵」「奴」として扱う限り、我々は日本を克服することはできない。
と書いています。
 韓国人が韓国に投げかける言葉としては適切かと思いますが、日本人には何の参考にもなりません。

 個人個人はいい人ばかり(そう聞いています)だというのに、韓日間の葛藤事案に関する限り、韓国には思想と良心の自由、表現の自由が事実上存在しないと言っても過言ではない、そういう国の人たちとどう渡り合っていけばいいのか――。
 ここが思案のしどころです。

                      (この稿、続く)