「罠にはまった文科相」〜教育勅語を読んだことはありますか?

f:id:kite-cafe:20181215115744j:plain

 靖国神社

 

【「教育勅語」問題の落とし穴】

 ちょっと時期遅れになりますが、先週文科大臣に任命されたばかりの柴山大臣が教育勅語について不適切な発言をしたとかで野党やマスメディアから激しく攻撃されています。

 

 その発言は、

教育勅語については、アレンジした形で今の道徳などに使える分野は十分にあるという意味では、(教育勅語が)普遍性を持っている部分がみてとれるのでは」

というものですが、なんでこんなことを言ったのか、教育勅語の歴史的経緯や議論に関する知識はなかったのか、そして文科省官僚はひとこと注意しなかったのか、まったく理解できません

 柴山大臣の発言に先立つ記者の質問がどんなものだったのか分かりませんが、

 

教育勅語に関するご見解を伺いたい」

      ↓

「内容的には良い部分がある」

      ↓

「大臣(議員)は教育勅語を評価、軍国主義に立ち戻る意思を示す」

 

は、これまで何十回となく繰り返された落とし穴のパターンではないですか。なんでこうもやすやすと罠にはまるのか――。

 

 柴山発言に関して立憲民主党辻元清美議員は即座に「もうそんなこと言ったの?安倍総理はどうされるのか、ご自分と同じ考えなのか。言語道断だと思う」と発言していますが、その場面をテレビで見ると明らかに記者が「柴山新大臣、こんなこと言ってますよ」と告げ口をしたうえで引き出した話です。

 この既視感は、昭和の回顧番組の「長嶋茂雄インタセレモニー」にも匹敵するものです。

 

教育勅語が(部分的に)いいなんて決まっているじゃないか】

 教育勅語が部分的に正しいなどと言うのは当たり前の話です。そもそもが道徳の基軸としてつくられるているのですから悪かろうはずがありません。

 特に

「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ」から「國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ」まで(父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦び合い、朋友互に信義を以って交わり、へりくだって気随気儘の振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すようにし、学問を修め業務を習って知識才能を養い、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し)はどう考えたって反対しようがない。

 

 教育勅語は1889年第一回帝国議会開催にあわせてつくられたもので、これから一部なりとはいえ民意が国政に反映しようという時、その民意があまりにもバラバラだといけないということで急遽示されたものです。

 作成にかかわった井上毅は宗教色・哲学色・政治色を徹底的に排除し、儒教的庶民道徳からも一部拾い上げて原案としますが、それは宗教的にも哲学的にも政治的にも反対する勢力から相対化されないためでした。つまり誰も反対できないような内容を中心に据えたのです。

 しかも国政に関わる法令・文書ではなく天皇詔書・勅書でもなく、勅語という極めて珍しい形式で発表されます。  だから「今の道徳などに使える分野(部分?)は十分にある」し、「普遍性を持っている部分がみてとれる」のは当たり前なのです。

 

 しかしこれは「ヒトラーは夫としてはいい人だった」というくらい意味のないことです。

 

 

【模範解答はあるだろう】

 それ以外の部分、例えば、

我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ(我が祖先が国をお肇めになったことは極めて広遠で、徳をお立てになったことも極めて深く厚くあらせられる)」は間違った歴史観ですし、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ万一皇室に危急の大事が起ったなら、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて永遠に極まることのない皇室のためにつくしなさい)」は時代錯誤も甚だしく危険でもあります。

 

 柴山発言に関して菅官房長官は、

「政府としては、積極的に教育勅語を教育現場に活用しようという考えはない。一般論として、教育については教育基本法の趣旨を踏まえながら、学習指導要領に従って学校現場の判断で行うべき」

とおっしゃっていますが、これも繰り返されて久しい政府の公式見解であり模範解答です。模範解答があって記者がそれで引き下がることは目に見えているというのに、なぜ敢えて「私の見解」をしゃべってしまうのか。炎上すると分かっていて火種を放り出すのは放火魔の所業です。

 

教育勅語は読んだことがありますか?】

 ところで先生方、教育勅語は読んだことがありますか?

 私は社会科の教員ですから当然読みましたが、他の教科の先生で読まれた方は少ないのかもしれません。大学の教員養成課程ですら奨励することはなさそうですから。

 

 しかしこれだけ繰り返し教育問題として登場する案件ですから、一度は読んでみるとよいと思います。現代語訳でも400字詰め原稿用紙2枚足らず、原文だと「明治二十三年十月三十日/御名御璽」まで入れてちょうど1枚の短文ですからすぐ読めます。 (これきしの文なのに「使える分野は十分にある」と言った柴山大臣、もしかしたら読んでいない?)

 

 見方によってはとても素直でツッコミどころの少ない文章です。それが日本の軍国主義に深く寄与し人々を戦争に導いたとされるのは、内容よりも扱いに特別なものがあったからです。 「教育勅語」は第二次大戦終了まで、1枚の紙っぺらとして扱われたことは一度もありませんでした。問題はそうした歴史的経緯も合わせて肯定するか否かということです。

 

 父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦び合い、といったことは「教育勅語」を頼りにせずとも教えることはできるはずです。

 

 どういう流れの質問に引っかかったのか知りませんが、それを教育勅語については、アレンジした形で今の道徳などに使える分野は十分にある」などと言ってしまって、柴山大臣、まんまと嵌められたとしか言いようがありません。

 

*引用した「教育勅語」のうち、「徳」についてのみ新字体で書いています。旧字をコピペしたところ、以後の部分が表示されないという不都合がありました。