カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「デビューさせるな=『下着は白』の誕生」~校則の話⑥

f:id:kite-cafe:20190909071039j:plain(ジョン・エヴァレット・ミレー「連隊の子」)


【統合の象徴としてのファッション】

 先週の最後の一節は、
 ファッション・アイテムが指定暴力団の金バッジのような働きを担うようになる
というものでした。

 これは普遍的といってもいい継続的な傾向で、古くは学生服を変形させる学ラン・長ラン、短ラン・ボンタン、スケバン女子の超ロングスカート、のちにミニスカート。

 学生服やセーラー服の変形に抵抗しかねて学校が制服をブレザータイプに変更すると、しばらくは非行ファッションのモデルがないために落ち着いていたものの、やがて男子は下げパン、女子はミニスカートにルーズソックスという新たな様式をつくりあげます。
 生徒指導はいつまでたってもモグラ叩きです。

 統合のシンボルは必ずしも制服である必要はありません。
 毎日のように何かをやらかすので、毎日のように呼び出して話を聞いていた中三の男の子が、虫にでも刺されたのか左目の斜め上にカットバンを張っていて、それがいつまでも治らないと思っていたら仲間の目印だったということがありました。同じ生徒ばかり見ていて他の生徒が同じ位置にカットバンを張っていることに気づかなかったのです。

 普通、中学生は長靴なんか履かないと思っていたら、女子の下足箱に可愛いパステルカラーの長靴が入っていたことがあります。
“雨でもないのに何で長靴?”
と、首を傾げて周りを見たら、学年中の難しい子の下足箱が全部パステルカラーになっていました。雨でもないのに長靴で登校というのも相当に格好悪い話だと思うのですが、彼女たちは気にしません。なにしろ“ガングロ”“ヤマンバ”といった余人には計り知れないファッションがまかり通った時代ですから何でもありだったのでしょう。

 

【「下着は白」の誕生】

 話を制服に戻します。
 1990年代になると巷にカラーギャングと呼ばれる非行グループが跋扈するようになり、チームカラーを前面に押し出し、一般人を威圧するとともに違う色のグループとは果てしなく抗争を続けるようになりました。
 やがてその思想が中高生に降りてきます。

 制服そのものカラー化は金銭的に困難だったので、彼らは下着に目をつけました。主として女子ですが、ブラウスの下にパステルカラーの下着をつけ、外から一目でそれとわかるようにしたのです(パステルカラーということだけが条件で、色そのものは揃えませんでした)。仲間の結束を誇示し、周囲を威圧するためです。
 これが「下着の色は白に限る」という、外部に人には意味不明な校則の原因となったできごとです。下着といっても下半身の話ではないのです。

 男の先生がスカートをまくって検査しているといったうわさが広まって世間を唖然とさせていますが、それは意図的に流された悪意あるウソです。そんなことをすれば普通の親は怒って訴える違いありません。
 それにもかかわらず今日まで学校を丸ごと訴える大きなセクハラ事件にならないのは、実際にそうした検査が行われていないからです。下着検査はもともとスカートの中を対象としたものではありませんし、本人たちが外部に誇っていたものですから外から一目瞭然です。それにカラーギャングの消えた現在、検査そのものも形骸化しています。

 ただしそれでも「下着は白」という校則はなくなりませんでした。あって困るものではありませんし、中高生がいかがわしいと言ってもいいような下着を、外から見える形で着けてきたら今でも指導の対象でしょう。痴漢対策という意味でも必要です。

 私はそのように考えますが、子どもの意思を尊重する立場から見ると「性被害を回避するための教育」は余計なお節介で、「下着は白」もブラック校則の範疇に入るものなのかもしれません。

 

【デビューさせるな】

 教師が統合の象徴としてのファッションを嫌うのは、もちろん一部の生徒が集団性を誇示することで他の生徒を威圧するからですが、それ以外にもさまざまな理由があります。

 ひとつは、子たちの持つ強力な差別化のエネルギーが無駄遣いされていると感じられるからです。「“その他大勢のひとり”でいるのは嫌だ!」という爆発的な力が、勉強やスポーツ、あるいは芸術や趣味・特技に生かされたら、どんなに素晴らしいか――そういった思いがあります。

 あるいはまだ自分のエネルギーを向ける先の決まっていない児童生徒を、変に誘惑しないでくれといった気持ちもあります。
 差別化を図る場合、勉強などでそれを行おうとするとどれも大変です。ところが髪を染めたりスカートを詰めたりといった差別化ならほとんど一瞬です。
 だから妙な見本を見せるのをやめてもらいたい――教師はそう考えます。

 ファッションによる差別化はひとつで終わらないということもあります。
 髪を染めたら化粧もしたくなります。髪も化粧も完璧にしたら着古した制服では物足りなくなるでしょう。頭のてっぺんからつま先まで完璧にしたら、その姿で家や学校で燻っているわけにはいきません。
 街に出て、しかし“何もせずに一周して帰ってくる”だけではつまらないでしょう。それぞれの場所にはモデルがいますから、どう振舞えばよいかは比較的簡単に学ぶことができます。
 私はこれについて、以前、「一枚の絵」という物語を書いたことがあります。

 もうひとつ、「こちら側の制服を捨てて、あちら側の制服を着る」と、後戻りが難しいということがあります。
 一度あちら側の制服を着てしまうと、それを脱ぐときは「教師に屈服した」「学校に負けた」と評価されることを覚悟しなくてなりません。仲間からは「足抜け」と思われます。

 「足抜け」は仲間内で最も嫌われる裏切りで、ときには凄惨なリンチに結びつきますが、それには無理のない側面もあります。

 非行少年たちのほとんどはあたりまえの学校生活に背を向け、常識的な進路を振り捨てて現在の生活を送っているのです。大きな犠牲を払って来ているとも言えます。

 それを非行少年としての面白みや楽しみを一緒に享受しながら、時期が来たから(入試があるから、就職が近づいたから)といって抜けて行くのはとんでもなく汚いやりくちです。後戻りできるだけの余力(学力や人間関係、生活基盤など)を今日まで残してあったというだけでも、十分、自分たちをバカにしています。

 一度仲間に入れたら、彼らは容易に離してくれません。ですから相当な覚悟のない限り、最初からそちらに行かないことが大事なのです。少なくとも外部から分からないようにしたい。

 髪を染めるとか、制服を大きく着崩すといった外目に明らかな変更を行うと、誰の目にも「こちらを捨ててあちらを拾った」ことが分かります。そしてこちら側の人間からは見切られ、あちらからは引き込まれます。
 大した気持ちでしたことではなくても、気がついたらルビコン川を渡っていたことになる――それは生徒にさせたくない。
 私たちはそうしたとき、よく「デビューさせるな」という言い方をしたものです。

                        (この稿、次回最終)