カイト・カフェ

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「幻想:誰も無理しないで済む社会の創出」~私たちは子どもに罠をしかけていないか④

 高校入試の内申書から出欠の記録をなくして誰もが、
 「学校に行かないといけない」と思わずに済む社会、
 家が貧しくとも名門私立高校に進学できる社会、
 私たちはそれを創り上げたが、それで良かったのか。
という話。
(写真:フォトAC)

【学校は行かなくてもいい場所になった】

 一昨日のネットニュースに、教育関係で気になる記事が二つありました。
 ひとつは「2025年度の岐阜県内の公立高校の入試から、各高校に提出する内申書の中の欠席日数や理由を記載する欄を廃止する」というものです。
 気になったのはその理由で、CBCテレビは、
「生理休暇や親の世話など、生徒本人の責任ではない欠席に対する配慮を求めた文科省の通知に基づいて決定されたもの」
だと言い、岐阜新聞はそうではなく、はっきりと、
「近年増加する不登校生徒の負担軽減を図るための対応」
だと言います。東海テレビは、CBC岐阜新聞の両方を合わせて書こうとしたみたいで、
岐阜県の小中学校では不登校の児童や生徒が7年連続で増加していて、体調不良でも無理をして登校する必要をなくしたり、ヤングケアラーなどの事情で欠席せざるを得ない生徒が不利にならないようにしたりする狙いがある」
と「7年連続の不登校の増加」と「体調不良」と「ヤングケアラー」の関係がゴチャゴチャの変な文章で読む人を混乱させます。
 そう思ってもう一度読み直すとCBCの記事も「生理休暇(中略)など、生徒本人の責任はでない」というのも妙な書き方ですし、生徒本人の責任ではない欠席に対する配慮を求めた文科省の通知(2023年6月16日文科省通達「今後の高等学校入学者選抜等における新型コロナウイルス感染症の影響等を踏まえた配慮等について」)で例示しているのは不登校やヤングケアラーの問題ではなく、「※例えば、新型コロナウイルス感染症のいわゆる罹患後症状と考えられる症状や月経随伴症状等も含む」なのです。不登校・ヤングケアラーはどこから来たのでしょう?

 また、岐阜新聞は、
「県教委は(中略)調査書に出欠に関する欄があることで、子どもが『学校に行かないといけない』と思ってしまうように、精神的な重圧につながることを考慮」
などと言っていますが、そもそも高校入試が「中学生としても不登校もいよいよ締め切り。勉強をして、試験を通って、学校(高校)に行きましょう」と精神的な重圧をかけているようなものですから、内申書の出欠席欄がなくなるからといって、そう簡単に気持ちが切り替わるというものではないはずです。

 気持ちの切り替わりが早いのはむしろ教室にいる屈託のない子どもたちの方で、「学校に行かなくても内申書にも入試にも何の影響もない」と教えられた一部は、2学期末から少なくとも入試が終わるまで、学校に行かずに家で集中的に受験勉強に励むことになるでしょう。トップエリート校に進学しようという子は、そのくらいの覚悟がないと無理です。
 案の定コメント欄は、その話題でもちきりです。弱者のために開けた道を、強者たちが爆走して行くのです。

【強者が走り去ったあとには・・・】

 気になったニュースのもうひとつは、
大阪府の公立高校一般入試が、私立高校との競合を避け、3月から2月下旬へ前倒しになる」(2024.06.25 読売新聞オンライン)という話です。理由は、
「授業料無償化などの影響で減少する公立高の志願者確保を目指して」
とのことですが、これも経済的弱者である人々の子どもたちが安心して進学できるように開けた風穴を、無償化のおかげで有名私立校への道が見えて来た学力エリートたちが東大・京大を目指して爆走した結果とも言えます。

 私は貧しくて公立高校にも進学できないかもしれない子に支援の手を差し出すことは必要です。しかし公立高校に行ける程度の収入のある家の子が、有名私立高校に進学できるほどの経済的ゲタを、税金を使ってまで履かせる必要はなかったと思うのです。丁寧に所得を調べて、少ない層にのみ手厚く対応すればいい。
 今となれば無償化のための財源で、ひとりでも多くの教師を雇っておえばどれほど助かったか分からないのです。しかし当時も今も、そうした考えかたをする教育関係者は少数です。
 さて、強者が走り去ったあとには何が残ったか――。

【幻想:誰も無理しないで済む社会の創出】

 今年の1月~3月期でもっとも評判の高かったテレビドラマのひとつは「不適切にもほどがある」でした。昭和を懐かしむ人々からは絶大な支持が得られましたが、30数年かけてここまで育てて来た人権意識を破壊し、昭和のセクハラ・パワハラ時代に戻すのかといった強烈な拒否も生み出しました。
 もちろん令和を昭和に戻すことはできません。しかし私はドラマを見ながら、少なくとも教育に関して、昭和と令和のあいだに横たわる大きな違いに心動かされていました。それは昭和が子どもたちに厳しく自立・独立と自助努力を求めたのに対し、平成・令和は子どもたちの責任を問わず、大人たち――特に学校に反省と変革を求めたということです。

 昭和の教師は丸坊主を強制しケツバット(ってほんとうにあったのかな?)で尻を叩き、スカートの長さを計り、髪を染め返させ、それが嫌だったら早く大人になれ、勉強しろ、独立しろ、親や教師に有無を言わせぬ人間になれ、と激しく挑発しました。
 ところが平成・令和の教師は違います。キミたちは今のままのキミたちでいい、がんばらない、学校は行かなければいけないところではない、キミたちは人間として私たちと対等だ、公立でも私立でも行きたい学校に行けばいい、キミたちはキミたちの生きたいように生きればいいし、そのための道は私たち大人が敷く、自分に正直であれ、たとえキミたちが同級生をいじめても責任は学校が取る、お子様無罪、キミたちの罪は誰も問わない――と、子どもたちはそんなふうに教えられてきているのです。
 いえ正確ではありません。私たちは常に社会を最弱者が努力しないで済むものに変えようとすることで、努力できる者も努力しない世界を創り上げてしまったのです。
(この稿、次回最終)