カイト・カフェ

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「指導はなくとも子は育つ?」~教育の最前線をどこに置くか①

 「学校の常識は社会の非常識」という。
 しかし教師が100年以上に渡って積み重ねてきた教育的知見が、
 ひとりかふたりしか育ててこなかった人々の知見に劣る、
 ――そんなふうに考えられるのはなぜだろう。
 という話。(写真:フォトAC)

【学校という学びの場には、それにふさわしい服装や髪型があるだろう?】

 私はごく常識的な考え方をして常識的な話しかしていないのに、世間ではまったく受け入れてくれない、そう思うことがよくあります。特に教育についてはそうです。「学校の常識は世間の非常識」とはいうものの、私が当たり前と考えることが世の中でまったく通らないことに戸惑うことが少なくないのです。
 例えば、いまさらながらの話ですが、男子のヘアスタイルのツーブロックや女子の色のついた下着を禁止することがなぜ人権侵害なのか、なぜ間違っているのか、いまだに分からないのです。

 葬式は遺族とともに弔う場ですからけばけばしい飾りの着いたパーティドレスで参加してはいけません。華やかな喜びの場だからと言って結婚式に白いドレスで参列するのも間違っています。こうした”常識“あるいは”良識“について、「葬儀に喪服を着ろという法律がどこにあるのだ」とか「同調圧力で喪服を強制するのはおかしい」とか、あるいは「何を着るかは自由で、強制するのは人権侵害だ」と叫んで抵抗する人はいません。
 場にはそれにふさわしい服装とか装飾とかがあって、大人は自然に守ることができるのです。

 同様に、学校は学びの場ですから学徒にふさわしい姿かたちがあります。厳密に髪はこう、服はこうと示すことはできませんが、少なくともツーブロックや、薄いブラウスから透けて見えるパステルカラーの下着は勉学の場にふさわしいものとは思えません。ところが葬儀や結婚式での服装や言動といったことでは一致できるのに、「学びの場にはそれにふさわしい髪型や服装がある」とか「学生には学生らしい身だしなみがある」といった“学校の常識”は、世間ではまったくの非常識なのです。そこが互いに理解できない。

【指導はなくとも子は育つ?】

 何かというとすぐに「高校生らしいというのはどういうことだ」と詰め寄られますから、指導が揺らがないように文書で示すと、ブラック校則をなくせという話になる。
 服装や髪型に関するきまりのどこがブラックなのかと突き返すと、男子教員がスカートをまくったり胸元から覗いたりといった異状な服装検査や、真冬でもジャンパーを着せないといった杓子定規の指導と抱き合わせにして、だから悪いだろうと丸ごと潰しにかかる。
 基本的な服装のきまりまでなくして、そんなことで常識や良識をどう育てたらいいのかと問うと、かつては「そんなことはプロなんだから自分で考えろ」という話になり、今は「自己責任、家庭の問題」という話になる。しかしもともと「家庭の教育力は落ちているから学校で」ということで学校が忙しくなっているのだろう、今さら自己責任だの家庭の問題だのと言ってはいられないだろうと、悪態のひとつもつきたくなります。

 ちなみに男子教員がスカートをまくっての服装検査といった人権侵害、というよりは組織的わいせつ犯罪が刑事告訴されたという話はつとに聞きませんし、福岡県弁護士会もアンケートによって“事実”を把握しながら告発もしていません。背後でよほど大きな権力が動いて隠ぺいに加担しているか、事実がないだけなのでしょう。広島市のジャンパー剥ぎ取り事件ももう少し突っ込んで調べないと、何か複雑な事情がありそうです。珍しく激しい雪の降った朝、ぼんやりと外を見ていたらジャンパーで登校してきた生徒がいたので捕まえて指導した、といった呑気な話のような気がしません。中学校の先生たちが暇を持て余しているという話も聞かないところです。

 「大人と違って子ども何らかの指導をしないと場にふさわしい身なりとか行動とかを取ることができない」というのが学校の常識です。それに対して社会は、少なくともマスメディアやネット市民の常識は「子どもたちのセンスや常識は、自由にして自ら磨くことによって育つ」です。あまりにも開きがある。
 私はときどき、世間の言う通りなら道徳や特別活動なんかいらないじゃないかと思ったりします。掃除やら児童生徒会やら、修学旅行・文化祭といった行事やらをすべてやめて数学や国語を教えるだけなら、働き方改革の問題も瞬時に解決してしまいます。その上で「放っておいても子が育つ」ならこんないいことはありません。
 
 さて、以上のような話は過去18年間、このブログでも繰り返し申し上げてきたことで、続けろと言われればいくらでも続けられるものです。しかし教員以外の誰の賛同も得られません。何度やっても虚しさを感じるだけなのですが、最近、少し毛色の違う話をネットニュースの中に見つけたので紹介します。それは、
 劇団ひとり 校則の見直し広がる動きに「若者って、ルールを犯したくなる。今度は社会のルールを犯すかも」

www.sponichi.co.jp
というスポニチの記事です。


劇団ひとり、教育を語る】

 記事によると、
「お笑い芸人の劇団ひとり(46)が、4日放送のテレビ朝日中居正広のキャスターな会」(土曜正午)に出演。全国の学校で、厳しい校則の見直しが広がっていることについて語った。
(中略)
(校則について効果を疑問視したあと)校則のメリットについて「不良のハードルを下げれる効果もあるような気がするんですよ。校則を破るっていうことで“俺はルールを犯してる”ってなるでしょ」と話した。「でもその校則ってのがなくなったときに、やっぱルールを犯したくなるじゃないですか、若者って。今度社会のルールを犯すっていうところに、もしかしたらいっちゃうかもしれないから、ちっちゃいボヤでおさまらせるっていう意味でいうと(校則が必要)」と、校則の緩和による、ある種の危険性を口にした」
 少しわかりにくい記事ですが、これがYahooニュースに転載されるとコメント欄に面白い投稿が並びました。
 その一つがこれです。
『たけしさんも言ってたな
「ナイフを持ってきてはいけない」という校則がある学校では「ナイフを持ってくる」だけで、「俺は凄いんだ!」という証明になる。
 それがないと、凄いの証明には、ナイフで誰かを傷つけて、凄いの証明にするかもしれない。と。

 比較的進学校やレベルの高い学校で校則が少ないのは、校則破り以外に、学力とかスポーツとかで、「俺は凄いんだ」を示す場があるからだとも。」

(この稿、続く)