「学校のアカデミズム;子どもは学校に来てはいけない」~「わけの分からない校則」にもわけがある③

 学校には苦しい勉学を支える雰囲気が必要だと考える教師、
 学校は生活の一部であり、青春そのものだと感じている生徒たち、
 その間に横たわる溝は深く、長い。
 しかし児童生徒諸君! それにもかかわらずキミたちは、
 最終的には高い学力や技能が欲しかったと言い出すのではないか?

という話。

f:id:kite-cafe:20210407073119j:plain(写真:フォトAC)

 

【それぞれの学校観が違う】

 つまるところ、「ブラック校則」の問題は関わる人々の学校観・教育観による違いから生じるのではないかと思っています。

 教師は学校を、「子どもたちに学ばせ、鍛え、育て、それぞれの持っている能力の最大限を引き出す場」としか考えていません。しかし子どもにとっての学校は、日中のほとんどをそこで過ごす生活の場なのです。生き生きと楽しく、充実した日々を送ることが最大の目標となります。
 保護者の多くは、教師と子の両方の立場に片足ずつを置いています。ひとこととで言えば「自由に伸び伸びと過ごし、いざというとき(受験期や就職期)はしっかり勉強して学力をつけてもらいたい」とそんなふうに考えているのです。
 政治家にとって、学校は自らの活動の成果を示す場であり、日本国、あるいは薩摩の国や尾張の国と言った意味での「国」の、国威発揚の場でもあります(学校に臨時講師の予算をつけたのは私だ、wi-fi環境を用意したのも私だ。そして我が町の全国学テの成績は、県内トップクラスだ!)。


 【教師は学校を勉学の場としてしか考えていない】

 教師が子どもたちの能力を伸ばすことに熱中するのには理由があります。法律や学習指導要領に書いてあるからです。それで給料をもらっているとみんな思っています。
 しかし法令を持ち出すまでもなく、目の前に100の能力があるのに70に甘んじている子がいたり、さまざまな事情によって半分しか力のつけられない子がいるとしたら、教師でなくても手を差し伸べたくなるでしょう。

 運動が得意でプロスポーツの選手にもなれそうな子がそこそこの成績で満足していたり、そこまではいかずとも、運動を生涯の趣味として活躍できそうな子がいい加減な練習で済ませていたら、私なら怒ります。せっかく才能を持っていながら生かさないのは、私のような才能のない人間を小バカにしているのと同じです。私がどんなに望んでも手に入らないものを、その子は平気で棄てようとしているのです。
 では才能のない子はそのままでいいのかというと、それも不可能でしょう。天才がないのならなおさら、半歩でも、ごくわずかでも、より高い学力や技能を身につけて卒業させることは、その子にとって絶対に大切なことだからです。

 しかし能力を限度いっぱい伸ばすというのは、そう簡単なことではありません。
 その子の今の力を100とするなら、いつも120程度の負荷をかけておかなければ体も心も知能も衰えてしまうからです。だから教師は子どもたちの前に繰り返しハードルを置いて、さあ跳びなさい、こんなふうに跳ぶんだよ、ガンバレ! と応援するのが仕事と心得ているのです。

 そうした事情のため、必然的に学校は禁欲的にならざるを得ません。教師が華美や奢侈を嫌うのはそのためです。明るく華やかで浮かれた気分で、苦しい勉学に耐えるというのは困難だと思うのです。
 教師は、苦しい勉強を支えるためには学校に「勉強の雰囲気」がなくてはならないと考えます。静かで穏やかで冴えた空気、教師に「さあ支えるぞ」という気概があり、児童生徒に「学ぶぞ」という意志がある――私はそれを「学校のアカデミズム」と呼んでいます。
 教育評論家の諏訪哲司は、
「子どもは学校に来てはいけない。来ていいのは児童生徒(学ぶ意志を持った者)だけだ」
と言ったことがありますが、おそらく同じ意味なのでしょう。
 しかし世間はそう考えません。

 

【彼我の溝は深い】

 私がたびたび引用する教育研究家の妹尾昌俊氏は、
 スカート丈から下着の色の指定、髪の毛を染めさせることまで、なぜ、学校にはわけの分からない校則があるのか、なぜ直そうとしないのか。
と言いますが、「学校のアカデミズム」だの「子どもは学校に来てはいけない」だの、そういった立場の私たちからすれば、「茶髪だのパステルカラーの下着だの、学問の世界にそんなものダメに決まっているじゃないか」ということになります。

 妹尾氏はまた、
「よく校則違反をする生徒が『いや、これは誰にも迷惑をかけていないし』と言うのは、結構本質を突いている話ですね」(2019.07.30「毛染め強要あるいは禁止から考える、校則はなんのため?【もっと学校をゆるやかにしよう】」
などとおっしゃいますが、学校にアカデミズムを作り上げなんとか維持しようとする私たちからすれば、それはとんでもない迷惑行為です。葬式にウェディングドレスで出かけてきて「誰にも迷惑をかけていない」と言われても困ります。
 人権派の教育評論家と私たち、彼我の間にはとんでもなく大きな溝があります。
(ただし私は妹尾氏の考え方を、「わけが分からない」といった言い方はしません)

 子どもたちの大半は、勉強をするために学校に来ているわけではありません。友だちに会って話したり、一緒に遊んだりするために来ているのです。小学生ならドッジボールや追いかけっこ、中学生以上だとゲームの話をしたりファッションの話をしたり、あるいは恋バナに花を咲かせバカを言い合うために学校に来ているのです。
 ですから学校を窮屈に感じるのは当然で、ここでもやはり「学校を勉学の場としてしか考えない」教師との溝は深いと言えます。

 では多様化の進む現在、私たちの方から子どもたちに近づいていけばいいのでしょうか? 学校をもっと明るく楽しい場にして、苦しい勉強から解き放ってやればいいのでしょうか?

 

【結局、勉強をさせておかなければかわいそうじゃないか】

 正直言って、私は世間の言うほど子どもや保護者の価値観が多様化しているようには思いません。多様化しているとしたらなぜ中学3年生の秋、子どもや保護者は高校に進学しないとか、普通科より実業科の方がいいとかいった選択をしないのでしょう。もちろん以前よりはずっとよくなっていますが、大半の子が、実力不相応な普通科への進学を希望します。平たく言えば「ひとつでも上の高校」をめざすのです。

 保護者の多くは「自由に伸び伸びと学校生活を過ごし、いざというとき(受験期・就職期)はしっかり勉強してほしい」などと言っていますが、1・2年生の間ずっと「自由に伸び伸びと過ごしてきた子」に、3年生になって突然、「さあ今日から勉強を頑張ろう」といっても無理なのです。突然フルマラソンに出る決心をして、その決心がどれほど強くても、翌日から毎朝10kmずつ走るということができないのと同じで、勉強は意欲だけでできるものではなく、精神的体力と習慣がなければ続かないのです。

 結局、最後に「勉強をしておくことが必要」という場に戻るなら、最初から私たちと一緒に学校のアカデミズムの枠の中にいればいいじゃないか、そうすればキミの志望校だって実力不相応なものにはならなかったはずだ、
――それが私の最終的な思いであり、希望をかなえさせてあげられなかったという意味での、恨みです。
 そしてそうした経験を繰り返してきたからこそ、どんなに世間にバカにされても、学校を勉学の場とすることにしがみつくのです。

(この稿、続く)