カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「幸福の王女」〜二人の女性の幸福と孤独①

 先週金曜日の朝はいつものように、コーヒーを飲みながらテレビニュースを耳で聞き、手は携帯でニュースやらブログやらをチェックしていました。
 毎朝、必ず確認しなければならないものがいくつかあるのです。

 そのひとつが「KOKORO〜小林麻央のオフィシャルブログ」なのですが、この日に限って開かない、夫君の「ABKAI 市川海老蔵ブログ」に行っても開かず、「まや☆日記 小林麻耶 オフィシャルブログ」に行ってここも開かないことで初めて異変に気づきました。

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【死の個性】

 私は人間の死を考えるとき、必ず思い出すひとつの言葉があります。それは昨年94歳で亡くなった義母の言葉です。

「人は病気では死なない。寿命で死ぬのだ」

 その言い方は一見運命論的に見えますし、何をやってもムダ、何もしなくても可のようにも聞こえますが、おそらくそうではありません。寿命が尽きているかどうかは終わってみるまで誰にも分らないからです。
 ですから私たちは大病をしたり事故にあったとき、どっちみち努力しなくてはなりませんし最善を尽くさなくてはなりません。その上で薬石効なく死に向かうとしたら、その時は「それが寿命だ」と受け入れ、まだ戦えるなら「寿命は尽きていないかもしれない(だからがんばれ)!」と自分を励ますしかないのです。

 小林麻央さんの死は結果的には避けようのないものでした。それは寿命が尽きていたからです。
 あのとき別の病院で診てもらえば、あのときもうひと言突っ込んで追加の検査をしてもらっていたら、と悔いの残ることもあるかもしれませんが、それも含めて“寿命”です。
 本来は1〜2年で亡くなっていたかもしれない人が3年近くも永らえた−−そうも考えられますが、それも“寿命”です。
 最期の瞬間を家族全員と迎えることのできたのも、それが“寿命”だったからに違いありません。

 ただし寿命は決まっていても、それをどう使うかは個性の問題でしょう。
 病気や死とどう向き合い、どのように受け入れるかにはそれぞれのに違いがあり、ある人が言ったように「人は、生きてきたようにしか、死ぬこともできない」のです。
 その点で、小林麻央さんの最後は実に見事で、幸せなものだったと私は思うのです。

 

【幸福な死】

 34歳という若さで幼い子どもを二人も残して死ぬことの、何が幸せか――もちろんその通りです。しかしその理不尽は“寿命”として受け入れなければならない動かし難い部分で、残りの部分では、彼女は幸福に満ち満ちていたように思うのです。
 だって最愛の夫がいて、二人の子どもがいて、理解ある両親・義母、そして妹のために命を投げ出してもいいという姉がいて、おまけにブログに250万人のフォロワーがいるのです。そのフォロワー中に彼女を支える人々がいて、さらにもっと多くの人々は彼女によって支えられていたのです。

 死の床にある人が何十万人という人々を支えることができる――それは普通の状況で普通の人にできる技ではありません。
 小林麻央という個性が、がんの病床にあるという特殊な状況にあって、初めて可能なことでした。

 ある人は病気が進んでも絶望することはない、ということを彼女から教えられました。
 ある人は死が目前に迫っても、うろたえたり叫んだりする必要はないのだと学びました。
 死は、案外恐ろしいものではない――そう感じた人も少なくありません。

 またある人は、近い将来わが身に襲いかかるものをどう迎えたらいいのか、どう迎えるのが正しいのか、手本を見る思いでブログを読み続けていたのかもしれません。
 更にある人は、自分もかくありたい、そうあろうと決心して今日までともに歩んできたのです。
 そして多くの人々は、彼女と一緒になって、息を止め、固唾を飲み、ホッと息をつき、また耳を澄ませたりしました。

 彼女の死の床には、ご両親もお姉さんも、ご主人も二人のお子さんも、そろっておいでだったようです。もちろん、最初に麻央さんの病気を知ったとき、「私が(がんに)なればよかったのに!」と叫んだ義理のお母さんもそばにおられたに違いありません。

 そしてその瞬間は共有できなかったにしても、何十万、何百万といった人々がそのそばにいたのです。彼らもまた、祈るような気持ちで、あるいは心臓を震わせ、あるいは穏やかに、あるいは粛々とその瞬間を迎えようとしていたはずです。

 最後まで人々の役に立つ生、他人にとっても価値ある命、意味ある死、そういうものは、そうたくさんあるわけではありません。幸せな人ですね。
 残念ですが、心より冥福を祈りたいと思います。

 さて、ところで一方、小林麻央さんの死とは比ぶべくもない、みっともない生があると、同じ週の週末のニュースが教えてくれました。「このはげー!」「死ねば」――の豊田真由子衆院議員です。

 しかし困ったことに、この人の気持ちもまったく分からないわけではないのです。

(この稿、続く)