「明治維新の絶妙」〜運の強国③

 1853年ペリーが来航し「日米和親条約」(1854)「日米修好通商条約」(1858)と二つの重要な条約が締結されたあと、明治の維新史から突然アメリカが消えます。なぜあれほど熱心だったアメリカが消えてしまうのか、答えは簡単で南北戦争(1861-1865)が起こったからです。第2次世界大戦も含めてアメリカが参戦したすべての戦争の中で最大の死傷者が出た戦争です(戦死および戦病死62万人)。そんな状況で日本を見ている余裕はありません。

 植民地主義の先進国フランス・イギリスはそれ以前にへばっています。両国はまずロシアと対立してクリミア戦争(1853-1856)を戦い、フランスは続いてインドシナ出兵(1858-1867)メキシコ出兵(1861-1867)など。イギリスはインド大反乱(1857)、アロー戦争(1856-1860)と歴史に残る大きな戦いを強いられ、こちらも本気で日本に手出しできる状況ではありませんでした。もちろんクリミア戦争の敗戦国であるロシアも来ません。

 ペリーに開国を迫られてから幕府が倒れるまでのあいだ(1853-1867)、つまり「日本が一番危険だった時期」がすっぽり「欧米列強の忙しかった時期」と重なるのです。欧米に付け入る隙を与えなかったのではなく、欧米に付け入る暇がなかった、それは別に日本が作り上げた状況ではありませんでした。ただ、そんなふうになってしまったのです。

 一般に、産業革命後のイギリス・フランスと交易を行うとその国の産業はズタズタにされ、国の富は一斉に持ち出されるのが常です。19世紀のインドが典型で、イギリスの安価な機械製綿織物が流入すると伝統的な綿織物工業は根幹から破壊されます。大都市を追われた職人たちは伝手をたどって田舎に帰りますがそこに十分な土地があるわけでなく、しかたなく大都市に戻る道すがら、途中で絶命した人たちの骨でヒンドスタン平原が真っ白になったと言われるほどです。

 日米修好通商条約以降、各国と同様の条約が結ばれると日本にも安価な綿製品が入ってきます。おかげで国内の綿織物工業や綿生産は壊滅的な打撃を受けるのですが、全体としてみると貿易額は黒字です。売るものがあったのです。
 輸出していたのは生糸・茶・産卵紙(蚕の卵を産みつけた紙、つまり蚕そのもの)。これが日本に膨大な富をもたらします。

 なぜそうなったのかと言うと1855年にスペインに端を発した蚕の伝染病がヨーロッパ全土に広がり、生糸生産がほぼストップしてしまったからです。需要は膨大なのに供給はゼロに近い状態。そこから中国はもちろん、日本の生糸・産卵紙が大量に買い付けられるのです。
 その圧力はすさまじいもので、当時江戸の問屋にあった生糸はほぼ全量が輸出に回され、甲州街道や中仙道、奥州街道は千両箱が山積みになって地方に下り、生糸の山になって戻ってきたと言います。その収入は巡りめぐって、日本が軍艦や武器を買う資金になります。欧米と互角に戦うだけの準備ができるのです。

 ヨーロッパの蚕の病気も日本が流行らせたものではありません。運が日本に味方したのです。

(この稿、次回終了)