カイト・カフェ

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「言葉だけでは躾けられないとき」〜北海道、しつけ置き去り行方不明事件に際して②

 教育評論家の尾木ママこと尾木直樹氏も「3歳以上だったら言葉で話せば必ずわかります」と繰り返し強調します。もちろん幼児に理解できる日本語に翻訳すれば、大人が伝えたいことのほとんどはわかります。もともとそんなに難しいことを要求しているわけではありませんから。しかし“わかる”ことと“できる”ことは必ずしも一致しません。
 掛け算の構造がわかったからといって掛け算が自由に使えるわけはなく、バッティング理論が理解できたからと言って普通の投手の球が打てるわけではないのと同じです。躾の現場で困るのも「何が悪いのか」理解させること(井上仁・日大教授)ではなく、その「悪いこと」を二度としない子ども、決して思いつかない子どもに変容させることです。

 しかしそう言うと、
「もちろん“理解”はそこまでの意味を含む。
 他人の痛みを我がことのように感じ、行為の罪深さを痛いほど知り、二度とそんなことはすまい、したくないと痛切に思うようになること、それが“理解する”だ。“時間をかけても親が向き合って、何が悪いのか理解させ”るというときの“理解”はそういう深い意味での“理解”のことだ」
とおっしゃるかもしれません。しかしそうなると今度は、
「そんなにレベルの高い“理解”を普通の親が子どもにさせられるのか」「どういった話法、どのような理論がそうした高尚な“理解”を達成するのか」ということが問題になります。

 しかしはっきり申し上げれば、普通の親にはそんなことはできません。道徳の時間に、訓練を積んだ教師がたっぷり時間をかけ、綿密な計画のもとで十分な資料を駆使して授業を行っても、目標の半分も達成できなかったりするのです。普通の親が突発的な事象に対して、瞬時に適切な言葉を用いて深い意味での“理解”をさせ、二度と悪いことをしないようにする、そんなことができるはずはないのです。
(もちろんできる人もいます。尾木ママや井上教授だったら「私はできる」「私はやってきた」とおっしゃるかもしれません。しかしそんなスーパーマンにしかできない指導は科学とは言えませんし、私たちにやれと言ってもムリです。それは芸術家か教祖の仕事です)

 言葉だけでは指導しきれない――だから古来より親たちは“恐怖”に頼ってきたのです。言葉の指導だけでは子どもは救えないというリアリズムが家庭における恐怖政治と専制を生み出したと言えます。

 ヨーロッパでは言葉だけでは森に入り込む子どもを押さえられないからトロルやゴブリンや魔女の話が繰り返され、日本では東北地方でナマハゲやアキノハギが「悪い子はいねェかァ」と暴れまくりました。寺院では地獄絵図が繰り返し開帳され、婆さまたちはこっくりさんやら神隠しやら酒呑童子やらの話をして外の世界の恐ろしさを盛んに吹聴したものです。村を一歩出ればそこには地獄が広がっているかもしれませんから皆必死だったのです。

「日本ではお仕置きとして子どもを家の外に出したりするが、子どもは怖さから逃れることしか考えず、自分の行為を振り返らない。教育的効果はない」
などと悠長なことは言っていられなかったのです。

(この稿、続く)