カイト・カフェ

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「子どもに対する気持ちの余計な皮を、一枚いちまい剥がす」~NHKドラマ「こもりびと」を観て⑥

 ドラマでは父の死と遺言が子の回生を促す。
 しかし現実にはそんな急な転回はあり得ない。
 長い時間がかかる。
 しかも時間のかかることの意味を知らないと、さらに時間がかかる

という話。

f:id:kite-cafe:20201207072223j:plain(写真:フォトAC)

【父親の死と子の回生】

 NHKドラマ「こもりびと」の最後の場面は、父親が亡くなって喪主となった主人公が、葬儀の席で少しだけ前向きなあいさつをして、少しだけ明るい未来を予感させるものでした。

 彼が前向きになったのには理由があります。
 SNSを通して匿名で息子の指導をしようとした父親の計略に気づいて、自殺をにおわせ外出したところ、あとから追いかけてきた父親が最後に叫んだ言葉、
「頼む、頼むから生きていてくれ、もう、それだけでいいから」
を信じたからです。
 しかし通常、言葉だけで急に生き方が変わることはありません。不登校や引きこもりの現場では「愛を伝えろ」「そのままで十分愛されているのだと知らせなさい」といったことが盛んに言われますが、何年もかけて「ダメな奴だ」「人間のクズだ」「家族の恥だ」と傷つけられたこころが、簡単に修復されるわけがないのです。

 親が愛せるのはこんな自分ではなく、成績優秀で素直な、一流大学を出て一流の職業につき、結婚をして素晴らしい家庭をもつ、そんな子どもだと、丁寧に刷り込まれて来たのに、ある日突然、「生きているだけでいい」と言われても信じられないのです。
 ドラマ「こもりびと」の主人公も一度は「今さらなんだよ!」と親の言葉を拒絶しています。

 それが一転して言葉を信じ、前向きに生きようという気持ちになったのは、ひとえに、主人公の父親が末期のガンで、実質的にそれが遺言になったからです。人生における最後の願いが「生きていてくれ」だったという重みが、主人公を変えていく――それがこのドラマのリアリティです。しかし必ずしも普遍的な話ではありません。

 

【子どもに対する気持ちの余計な皮を、一枚いちまい剥がす】

 もちろん子どもに寄せる様々な親の願い――きちんと生き欲しい、できれば一つでも上のレベルの学校に進んで欲しい、安定した職に就いてもらいたい、結婚して良き家庭を持ってもらいたい――は特別のものではありません。それらの一枚いちまいを剥がしていくと、最後に残るのは「生きていてくれ」しかないのはどの親にとっても同じです。
 例えば大きな事故で子どもが生死の境をさまようといった状況では、一瞬にしてすべての余計なものが剥がされ「生きていてくれ、それだけでいい」が露わになることは容易に想像できます。けれどそんな極限状況でなければ、親自身が自分のこころの真底にある唯一の願いを、意識することも子に伝わることもないのです。
 さらに気づいたところで、とりあえずどう伝えたらいいのかは分かりませんし、口にしてみたところで容易に伝わっていく気がしません。もともと愛は口で伝えるものではないのかもしれません。

 ドラマで“ひきこもりの経験者と家族の会”のようなところに行った父親が、
「外に出て見ようと思ったきっかけは何だったんでしょう?」
と訊ねると、若者の一人がこんなふうに答える場面が出てきます。
「きっかけは、両親が変わったこと、外に出ようが出ないだろうが、このままでいいっていう空気感が出てきて、あるとき、まあ、出てもいいのかなあと・・・」
 そうなのです。空気感”のような形でそれが漂い始めるまで待たないと、子は親の真の願いを信じてくれないのです。

 

【放っておいてもエネルギーは溜まらない】

 今はあまり言われなくなりましたが、不登校の指導の現場に、「本人のエネルギーが溜まるまで何も言わず静かに待つ」という考え方がありました。私は終始これに抵抗してきました。

 “待つ”に前にやれることはたくさんあると思っていましたし、何か策を打って“結果を待つ”ならまだしも、“ただ待つ”ことにどんな意味があるのか理解できなかったからです。
 人間はロボットではありませんからエネルギーが溜まれば動き出すというものでもないでしょう。溜まりすぎて持って行き場の失ったエネルギーに苦しめられるひきこもりだっているのです。そもそも “何もしなければ溜まる”というエネルギー降臨説も理解できません。

 しかしそれにも関わらずこの方法がいつまでも支持されるのは、一部とはいえそれが成果を上げているからなのです。私はエネルギー充填説など信じませんがそれでも結果は出ている、なぜ出るのか?

 その理由は長い長い時間をかけて不登校・ひきこもりを克服した家庭の様子を観れば分かります。

 

【親のこころを時間が裸にする】

 何もしないで待つうちに子どもの学習はどんどん遅れ、友だち関係も失われて行きます。高校受験をやり過ごして大学受験も可能性が消え、就職さえもおぼつかなくなると、遠い先の結婚の可能性も消えてしまいます。少なくともそんなふうに感じるようになります。外に出したくても何の技術も人間関係もない子どもは出しようがない。そして精も根も尽き果てる。
 ところがそこまでくると、かえって「何もしないで見守る」ことが余裕でできる親が出てくるのです。

 執着のようなものの一切が洗い流され、ただ静かに暮らしている。このままでいい、このままの方がいい、今の状況でゆったりと暮らしていたい――すると先ほど出てきた「このままでいいっていう空気感」が漂い始めるようなのです。もちろん“空気感”ですから最初は気づかれません。気づいてからも確認の時間がたっぷりかかります。

 やがてまた長い長い時間が経過し、“空気感”が安定的に漂って今後も容易に消えないだろうと感じられるようになり、そのときに至って初めて、子はもう自分が責められていないことや家族から大事に思われていることを知るのです。歩き始めるのはさらに次の段階でしょう。

 私は今でも早すぎる“見守り”という対応策には抵抗があります。あまり刺激を与えすぎるとかえって状況が悪くなるという人もいますが、放っておいても悪くなる時はなります。打てる手は打ちましょう。
 しかしそれにも関わらず事態が進展しないとなったら、以後は黙って見守ることに徹します。ただしそれは子どもにエネルギーが溜まるのを待つ時間ではなく、親である自分が変わり、そのことを子どもに理解してもらうため時間です。
 こちら側の問題ですから、いかようにもなります。

(この稿、続く)