「鬼とピエロ」~虐待親と号泣議員

 不登校が社会問題となったのは私の記憶によれば1975年以降のことです。
 当初は親のしつけのまずさや子どものわがまま・怠けの問題としてとらえられていたのが、次第に「学校の受験偏重主義と管理教育」の問題になり、受験競争が廃れ校則が過剰なまでに減らされてもなくならないとわかると、今度はいじめがクローズアップされるようになりました。「いじめで自殺するくらいなら不登校を貫け」は不登校の問題をあまりにも一面的にしてしまいました。もちろん言っていることは間違いないのですが、余りにも極端な二者択一です。

 一方、学校の現場やカウンセラーの一部からは不登校の中に相当数の発達障害の子どもたちがいて、一般の不登校とは異なった対応が必要だという話もささやかれるようになっていました。その割合は2割だという人もあれば4割以上という声もあって確定しないのですが、これまで私たちに欠けていたのが「不登校にもいろいろなケースがあるという観点からの分析」だということは明らかになってきたのです。
 それまでは不登校すべてを網羅するような原因究明や対策を考えるか、「不登校といっても子どもは全部異なる」と言って本質的な究明を怠るか、ふたつにひとつしかないような状況が長く続いたのです。

 不登校の子の〇パーセントには明らかな発達障害が見られる。この子たちのことは不登校ではなく発達障害の問題として考えていこう。その他の子についてはさらにグループ分けができるかを考え、その上で原因究明と対応を考えていく。家庭環境が劣悪で学校に来れない子もいる、不良行為に忙しくて学校に来ていない子もいる、単純に学業不振だけが理由の不登校もいる・・・。
 おそらくそれが正しい態度でしょう。

 さて、先ごろ、埼玉県狭山市の虐待死事件に関して私は「まったく理解できない」と書きました。実の母親が同居する男とともに長期間にわたって子どもをいたぶるということは、私の想像力の及ぶところではないというお話です。
 ところがそれから十日もたたないうちに起こった東京都大田区の事件の方は、「同居する男が女の連れ子を虐待する」という比較的ありがちなかたちであるとともに容疑者が暴力団の組員だということで、何となく手の届く範囲にあるような気がしています。

 報道によれば虐待は同居し始めた1月8日以降すぐに始まったそうですが25日昼の時点で身体にアザなどがないこと保育園で確認されていますから、その夜に1時間にわたって行われた暴行が際立って激しかったと想像されます。
 かかと落としを繰り返したボーリングのように投げた、刃物で脅した自殺を教唆したなどはどれも正常ではありません。しかし救急隊が駆け付けた時は逃げもせず玄関先で携帯をいじっていた、「ガンを飛ばされたので暴力に及んだ」「人生に悔いはないと発言した」といった周辺のことも、いくら容疑者が二十歳の子どもとはいえまったく理解しがたいものです。
 対立する組織の組長の首を取ってきたというような話ではあいのです。「人生に悔いはない」と偉そうに言ったって、「三歳の子どもを殴り殺した」ではそのスジの人だって相手にしてくれません。何をしでかすかわからないような人間は、暴力団でも困るのです。そんなこともわからない。
 もしかしたら彼も大分県自衛官のように、「不安とおびえ」から無我夢中で暴行を続けていたのかもしれません。三歳の子どもに追い詰められるような何を持っているのです。

 ついでに、
 今週は、政務活動費をめぐる詐欺などで在宅起訴された元兵庫県議・野々村竜太郎被告の初公判を、面白おかしく取り上げるニュース・ショーがいくつもありました。
 丸坊主で出廷したとか被告人質問で「記憶にない」「覚えていません」を90回以上にわたって繰り返したとか、2年前の号泣記者会見を交えて半ば笑いものにしながら番組を構成しているのです。
 ここまでやるのは人権問題ではないのかという疑問もありますが、果たしてこの人を通常の裁判で裁くのが適切なのかという指摘がどこからも出ないのが不思議でもあります。
 検察に対して「記憶にない」「覚えていません」というのは当然としても、打ち合わせ済みであるはずの弁護人にまで同じ答えを繰り返し、別のやり取りでは明らかに弁護士を呆然とさせているのです。
 考えてみればあの号泣会見も常人のものとは思えません。まずあんなことは思いつきませんし思いついてもやりません。そしてなによりもやろうとしてもあれはできないのです。
 芸人が真似をするのも見ましたし宴会で学生がウケを狙ってやるのも見たことがありますが、まったく面白くない、うまく行かない。あれができるのは、あれが地であるような人だけだ、そんなふうにも思えてきます。

 もちろん政務活動費の問題は追及され究明されなければなりません。しかし同時に、野々村元議員の精神的な問題についても切り込んでおかなければ、事件を意味もなく一般化したり逆に特殊な問題として闇に葬りかねない気もするのです。