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「教育用語の基礎知識」⑦〜向き合う・寄り添うD

 今世紀に入って不登校が12万人程度で長期安定に入ってしまい、それにつれてマスコミもすっかり興味を失い、年度末統計の数字として出る以外、ほとんど話題にもならなくなっています。おかげで世の中の人がどう感じているのか、教育界が全体としてどう対処しようとしているのか、まったく見えなくなってしまいました。
 けれど一方、そのおかげで日本中の学校が(あるいは教師が)自分の信念に従った独自の対応をするようになっています。結局はケースバイケースですから、現場の判断に任せるしかないのです。

 不登校はほんとうにミステリアスな現象で、何が正しいのかさっぱりわかりません。そのあたりの事情をWikipediaはこんなふうに書いています。
「保護者が適切な登校刺激を与えれば、早期の再登校につながる場合もあるが、不適切な登校刺激が事態の深刻化を招く場合もある。一方で、一見すると不適切とも思える登校刺激により再登校に至った事例もあれば、放置により不登校の長期化する可能性もある」
 不登校が注目されはじめた1975年ごろの私たちの理解も、これと同じでした。そこから夜討ち朝駆け、恐喝、懐柔、懇願、泣き落としとありとあらゆる方法を繰り出し、しばしば児童生徒の学校復帰に成功してきたのです。ところが90年代にいたって、そうした方法は強く否定されます。
「登校刺激はいっさいしてはならない。子どもを信じ、エネルギーのたまるのを待つのが唯一の道。それ以外のやり方では必ず長引く」
 それ以後、私はこの考えにずっと苦しまされることになります。

 今まさに手に入ろうとする(学校復帰に成功しようとする)子どもを次々と奪われたという深い恨みもありますが、そもそもその考えがまったく理解できなかったのです。
「ゆっくり休むとエネルギーがたまった子どもは必ず動き出す」といっても、長期休業のあと喜び勇んで登校する子どもたちなど見たことがありません。かくいう私自身も、長く休んだあとはむしろ腰が重い、出て来るのが本当につらかったからからです。
 人間に「エネルギーがたまる」ということ自体、イメージがわきません。私たちはロボットではないのです。体の中にエネルギーがたまって否応なく動き出すなど、あってたまるかという想いもありました。しかし何より困るのは、このやり方で学校復帰ないしは社会復帰に成功した子どもがいるという事実です。
 実際の私はそうした成功例を見たことはなかったのですが、荒唐無稽な話だったらこの説はかくも広範に広がりはしなかったでしょう。どこかで誰かが、しかもかなり多くの誰かがこのやり方で成功している――そのことが私を悩ませたのです。そんなはずはないと、いつも心の奥で呟く者がいました。

 今ならわかります。
「登校刺激を与えず、子どもを信じ、エネルギーのたまるのを待つ」ことで子どもの学校復帰や社会復帰に成功した人たちがいることを。そして同じ方法で事態を悪化させ、大人になっても不適応を克服できない人たちが存在することも私は知っているのです。
 同じ方法を取りながら、うまく行った例とそうでない場合の差がどこにあるのかも、今ならわかるような気がするのです。

(この稿、続く)