カイト・カフェ

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「教育用語の基礎知識」⑧〜向き合う・寄り添うE

「登校刺激を与えず、子どもを信じ、エネルギーのたまるのを待つ」
 子どもの不登校で悩み苦しみ、ありとあらゆる手を尽くした挙句にこの論理を受け入れた家庭には、様々な変化が生まれます。その筆頭は親子の闘争がなくなり、表面的な平和が戻ってくることです。
 切っ先を突き合わせて対峙していた親子関係が解消し、多くの家庭で穏やかな会話が戻ってきます。条件付きとはいえ平和な日々が戻ってくるのです。

 もうひとつ重要な変化があります。それは親が子どもに対する多くの欲望をそぎ落としてしまうことです。義務教育への復帰ですらおぼつかないのに将来などまるで考えられません。
 一流高校に進んで有名大学に進学する、そしてその先には子どもの輝かしい未来と楽しく豊かな生活が待ってる――かつて本気で考えたことは夢ですらなくなります。とりあえず生きていることに満足しければならない――その意味では赤ん坊として生まれた時と同じです。
 ここまではすべての家庭がほぼ同じです。問題はその先です。

 その先で、ある家庭は何かをしたから子どもは生き生きと生き直し始め、別の家庭ではそれをしなかったからうまく行かなかったのです。あるいはある家庭では何かをしたからダメで、別の家庭ではそれを避けたのでうまく行ったのです。それは何か。

 先週の「アフター・フェア」で、私はあるイメージについてお話ししました。広い広い夜の砂(すな)沙漠を、並んで歩く親子の姿です。
 息子が悪い方向に向かっていくのを、母親が一緒に歩くと見せかけて、静かに肩を押しながら別の方向に誘導しているのです。その目の隅には数キロ先のオアシスがとらえられています。しかし「あそこへ行こう」と言えば息子は無理にでも違う方向へ向かってしまいます。そんなことはこれまでも何百遍となく経験してきたことです。素直に言うことを聞くような子ではありません。わざと逆のことをしたりします。そこでできるだけわからないように、どうでもいい話で時間をつぶしながら、それとなく進路を変えていくのです。

 現実の世界で言えばそれはこんなふうになります。
 親子は日に夜に、折を見て話をします。たくさんする必要もなければ無理にすることもありません。しかし毎日、何かしらの会話をします。
 たいていはどうでもいい話です。最近見たテレビの話だのゲームのことだの、このあいだ読んだ本のこと、今日考えたこと、昔の話――。

 親は熱心に聞きますが敢えて意見を言ったりはしません。否定したり無理に方向を捻じ曲げたり、あるいは良い兆候だと積極的に推したりもしません。なぜならそんなことで事態が急変するとは思っていないからです。これまで何十遍も期待したり緊張したりしましたがいつも裏切られてきました。ですから小さなことに悩んだり、逆に小躍りしたりすることはもうないのです。
 それに仮初とはいえ、彼女はこの平和な時間を愛しています。何年もなかった「子どもと普通に話す」という時間をいとおしく思うから、あえて否定して会話の流れを止めるのが嫌なのです(傾聴)。

 その代わりしばしば質問したり、もっと詳しくと促したり、急に思い出して数日前の話を蒸し返したり、あるいは漠とした話を少しずつ形あるものにしたりします。そういうことは繰り返し行います(質問)。そうでもしないと間が持たないという面もあるのです。

 さらに親は、しばしば「そうだね」「そんなふうになるといいね」と言って子どもの話に相槌を打ちます(承認)。そうしたすべては著しくコーチング的だと言えます。

 そして、それはまさしく親が子に「寄り添う」姿だと言えます。

(この稿、続く)