娘を嫁に出し、「父親としては“ホッとしました”が正直な感想」と書きました。それはおそらく珍しい感じ方ではありません。しかし私の場合、他の父親の安堵感とは百分の一ほど異なるものがありました。それは「もしかしたら娘と一緒にバージン・ロードを歩くことはないのかもしれない」と思ったことがあるからです。一緒に歩けなかったら、娘がちょっと可哀想だなと、そんなふうに思ったのです。
17年前、私はある都市のガンセンターにいました。外科病棟で手術後の体を休めていたのです。病名は肺がん、手術は右上葉部切除というものです。
一般に肺は左右二つだと信じられていますが実はそうではありません。右の上から上葉・中葉・下葉の三つ、左に上葉・下葉の二つ、合わせて五つあります。その右の上葉部にガンがあり、上葉をそっくり切り取ったのです。経験したことのない人には分からないと思うのですが、このとき、何と手術は背中から行うのです。うつぶせにして肩甲骨の線に沿ってメスを入れ、肋骨を切ってそこから手を入れ切除します。その痕は今も残っています。
最初、ガンかもしれないと言われたとき思ったことは「やべェ」です。不摂生をしすぎました。
慢性的な睡眠不足と過剰なアルコール摂取、それに何より2日で3箱というヘビースモーキングが体にいい訳はありません。
「神様、ごめんなさい。一回だけ見逃してください。不摂生をしました。反省します」
しかし実際に肺ガンだと確定診断を受けると感じ方も変わってきました。なにしろレントゲン撮影で長径3cmもあり、ステージ(進行度)を聞くと「Ⅱか、Ⅲa」。
当時の肺ガンのステージは5段階。Ⅱ期の生存率は40%、Ⅲaは15%ほどです。医者はもちろん最悪の宣告はしないでしょうから「ⅡかⅡa」と言えば実際には「ⅢaかⅢb」。Ⅲbとなると生存率は8%にも落ちてしまいます(現在は同じステージでも生存率はずっと良くなっています)。これでは完全にアウトです。そこで考えたのは「1年だけ生きていたい」でした。
上の娘は小学校2年生ですから私を覚えていられるでしょうが、下の男の子は幼稚園に入ったばかりです。とても覚えてはいそうにない。しかし1年あれば文章でも写真でも、VTRでも様々なものを残してあげられる――そこで聞くと、医者は事もなげに、
「普通は一年くらいもつものですが・・・」
それで十分でした。一年間その気でじっくりと付き合えば、この子たちに十分なものを残すことができる――それで私は幸せでした。
絶望したわけでも投げやりになったのでもありません。今考えても呆れるくらいすんなりと“落ちた”のです。
可能性もないのにむだに苦しむのは嫌でした。余命1年が1年半に延びて良いこともなさそうです。そこで、無意味な治療はしない、効くか効かないか分らないような民間療法もしたくない。子どもと過ごす時間をたっぷり持って、気持ちよく過ごしたい、そんな話を妻にしました。その時の返事が、これです。
「そんなこと言わないで、シーナ(娘の名)のバージン・ロード、一緒に歩いてやらなければいけないんだから」
娘の結婚式の直前にそれを思い出しました。忘れていたくらいですから“そのために頑張ってきた”といった事実があるわけではありません。しかしバージン・ロードをともに歩き娘を新郎に引き渡すことができたのは、父親としての勤めを果たせたという意味で、やはり幸せだったはずです。
「ホッとした」には多少、そういう意味も含まれていました。
(この稿、続く)