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「一般化と特殊」〜新たな佐世保事件のこと

 佐世保で不幸な事件が起き、マスコミはいずれもトップニュースで伝えています。

 今回の事件に際し、誰しもが10年前のいわゆる佐世保事件に思い出し、その類似性に慄然とさせられたと思います。仲の良い女の子同士の事件、刃物を使った犯罪、身体の一部の切断と―そんなところからマスコミでは「生かされなかった教訓」とか「届かなかった『命の教育』」といった扱いが目立ちます。しかし果たしてそうでしょうか。

 ある新聞には「友人の命を奪うところまで精神的に追い詰められていたのだろう」といった解説が載っていました。しかしそれは「命は尊い」と信じる者の勝手な思い込みなのかもしれないのです。特に「人を殺してみたかった」と言って実際に行ってしまう人の、冷酷とさえ言えない、乾いた無感覚の所業を思うと、“精神的に追い詰められた”とは全く異なったものを浮かべざるをえません。 
 1977年の酒鬼薔薇事件も、2004年の佐世保事件も、あるいは宮崎勤事件もすべてそうでした。そこには私たちの類推を許さない何かがあるのです。

 教育は、ある一般化された児童・生徒を前提として行われます。数学の問題で、正答にいたる道筋は無限ではありません。同様に間違い方にもパターンがあり、そこを抑えるために教科指導は行われます。ある程度予測ができるから一斉授業が可能なのです。
 しかしそれが全く通用しない子も、もしかしたらいる。
 たとえば某国の独裁者の幼少譚のように、「粘土の塊は1と1を足しても1でしかない」などと言い出す子がいたとしたら、それは個別に取り出して指導するしかない。一般化できないケースには個別の指導が必要なのです。

 心の教育や道徳では、しばしばそういうことが起こります。人権教育の授業の最中に「どうしたら人の心を深く傷つけることができるか」を学んで実践してしまう子、性教育の最中に情欲に駆られている子――それは常に一定数出現し、ゼロにはできない副産物です。これは単純に人権教育や性教育の授業時数を増やすことでは解決できません。個別の案件です。

 第2佐世保事件と呼ばれるようになるかもしれない今回のできごとに際し、佐世保市教委や長崎県教委が「さらに心の教育を」という方向に進まないよう心から願います。酒鬼薔薇聖斗は兵庫、宮崎勤は埼玉の人間です。たまたま佐世保で女の子が続けて事件を起こしたというだけで長崎県佐世保市に何らかの問題があるわけではないのです。長崎県佐世保市もそういう意味で傷つくことはありません。

 また「命の学習」はムダというわけではありませんが、一般化できるような児童生徒にはある飽和点があるはずです。かけざん九九も各学年配当の漢字も、すべて覚えてしまったらそれ以上の学習は必要ありません。それと同じです。

 もちろん飽和点を見極めるのは困難ですし、不安からダメにダメを押したくなるのも分らないではありませんが、授業時間も無限にあるわけではないのです。
 一斉授業では済まない子には、それなりのアプローチがあるのです。