「期待と逡巡」〜一手の遅れ

 佐世保での不幸な事件は一般化できないものでだからこそ特殊な情報(この事件に関する具体的な詳報)を持たない私などは安易に語るべきではない、そんなふうに思っています。ですから前回記述したのみで終わらせようと思ったのですが、どうにも気になることがあります。それは弁護士を通じて世間に伝わってくる加害者の父親の発言に対する、マスコミの反応です。

「言い訳に終始している」「他人のせいにしている」「不可抗力を強調しようとしている」「被害者の家族の心情にまったく配慮していない」等々。

 しかし私は父親のもっと誠実なものを感じています。それはこの事件を学び、この事件から教訓を得ようとする人たちがミスリードされないよう、その時々で正確な情報を出して行こうという真摯な態度です。子がこれほどまでに大きな事件を起こしてしまうと父親として社会に対してできることはほとんどありません。そうだとしたらせめて、情報はだけはきちんと出しておこう、そんなふうに感じるのです。

 例えば、「実母が死んで間もないというのに若い後妻を迎えた父親、その無神経が加害少女の心を狂わせた」というストーリーはあまりにも単純です。そうしたありきたりの、一般化できる感じ方はこの娘にはふさわしくありません。むしろ後から報道に現れた、「お母さんが死んで寂しかったから、新しいお母さんが来てくれたのはうれしかった」――こういった、いかにもこの娘にふさわしいような気がします。そうした特異な情報を積み上げて、初めてその心の在り方に近づくことができるのです。父親はそこに力を尽くそうとしています。

 もうひとつ。

 危機が目の前に迫っている状況でいちいち対応が後手に回った問題について。これは結局、生徒指導の場に常に存在するジレンマです。非行にしても不登校にしても、最悪の状況になると確実に分っていれば、手を打つのに躊躇はありませんしおそらくもっとも適切な対応がとられるはずです。しかし実際にはそうはならない。なぜならそこに期待や逡巡があるからです。悪い兆候ばかりではなく明日になればよい兆しが見えるかもしれない、明後日には別の動きがあるかもしれない、そうした親の期待や逡巡を一概に責めることはできません。何かがあればすぐに司直や関係者に我が子を引き渡すような親では困るのです。

 明後日、娘が友だちを惨殺すると分っていれば仕事をすべて投げ捨てて警察に駆け込んだことでしょう。しかし危機感はあってもそこまで切迫しているとは“思いたくなかった”、その思いが、一手遅らせました。時間外に病院や児童相談所に電話を入れるという愚かさは、そこから産まれます。しかし今後社会制度を整える上では、この“親の期待と逡巡”は織り込んでおかなければならない重要な要素です。

 理化学研究所の発生・再生科学総合研究センターの笹井副センター長が亡くなりました。すでにノーベル賞を取っていて不思議のない人、日本の宝とまで呼ばれた天才です。理研の内部あるいは周辺に、この人が自殺する予見や不安はまったくなかったのでしょうか。

 小保方晴子さんの方には人が着いていました。しかし笹井氏の「(研究の)ディスカッションができない」という異常な状況に誰も手を出さなかったとうのは、どうにも解せないことです。

 大人の社会における一手の遅れについては、これはまた別に考えてみたいことです。