姪のところに双子が生まれたことをあれこれ考えているうちに、ふと思い出したことがあるので記録にしておきます。
近世以前の世界では双子はあまり喜ばれなかった様子があります。それは低体重で生まれてくるため医学の進んでいない時代には片方あるいは双方の命が失われるケースが多かったこと、あるいは経済的に二人を同時に育てることが難しかったといった事情によるものと思われます。そのため、戦前の日本には双子が生まれた場合は一方を養子に出すという習慣がありました。つまり双子でありながら別の環境で育つという例がいくらでもあったのです。
双子であることが決定的に深刻になるのは王家や皇帝家に生まれた場合であって、どちらが後継ぎになるかという問題は周囲の人々を巻き込んで国を二分しかねません。そこで一方が殺されるとかどこかに捨てられるかといったことも起こります。アレクサンドル・デュマの「鉄仮面」はそうした背景のもとで書かれましたし、マーク・トウェインの「王子と乞食」にも同じ事情が暗示されています。当然ここにも双子でありながら別の環境に育つという状況が生まれたのです。
そして「全く違った環境で育てられた一卵性双生児」という存在は、学者たちの好奇心を最大限に掻き立てました。なぜなら、人間の成長にとって遺伝的要因と環境的要因はどの程度の割合かといった問題に、その存在は大きなヒントを与えてくれるからです。
端的に言って、顔や身長や声などは別環境で育ってもほとんど同じでしょう。これらは大部分が遺伝的要素によって決まりますから環境に左右されないはずです。しかしスポーツや芸術の能力はどうでしょう。オリンピックの二世選手などを見ていると運動能力は大いに遺伝的でありそうですし、大和絵の狩野派一族を見ていると美的能力も遺伝かもしれません。音楽のバッハ一族、モーツアルト親子、ベートーベン一族、そういった人々を思うと、これも遺伝的要素の強いものなのかもしれません。
一卵性双生児というのは遺伝子的にはまったく同じものを持ったいわばクローンです。もし「全く違った環境で育てられた一卵性双生児」がことごとくスポーツ選手になっていたとしたら、「運動能力は遺伝的要素が非常に強い」ということになります。しかも競技ごとの偏り―例えば短距離走の能力は双子で似ているが投てき種目はそうでもないといいったこと―があれば、それぞれの能力は先天的(つまり遺伝子要素が強い)であったり後天的(つまり環境的要素が強い)であったりすることが多いということがいえます。
実際にはどうだったのでしょう?
答えは「分からない」です。
こうした科学的手法が確立した時、すでに時代が変わっていて「全く違った環境で育てられた一卵性双生児」はほとんどいなくなっていたのです。双子は双子のまま、大切に育てられる時代に変化していました。
したがって大勢の「全く違った環境で育てられた一卵性双生児」を比較するといった科学的な方法はとることができず、一部の資料から「こういうことらしい」と推論するにとどまっていたのです。しかしこの問題は、別の方法によって解決されました。
(この稿、続く)